サディズムの思想とは?|サド、フロイト、バタイユ、ラカン、ドゥルーズまで解説

Read in English

「サディズムの思想」と聞くと、「他人を苦しめることを肯定する思想」や、マルキ・ド・サドの残酷な哲学を想像するかもしれない。しかし、思想史をたどると事態はそれほど単純ではない。まず、歴史上「サディズム」という一つの統一された哲学体系が成立したわけではない。19世紀末に性科学の用語となったサディズムは、フロイト以後の精神分析で攻撃、力の行使、欲動、破壊性、乳幼児期の幻想といった問題へ変化していった。一方、20世紀、とくに戦後フランス思想では、医学的な「サディズム」よりも、サドという作家そのものが、自由、他者、禁忌、死、法、欲望、享楽、言語を考えるための思想的な装置として読み直された。

したがって、本記事でいう「サディズムの思想」は一つの思想を意味しない。前半ではサディズムという概念そのものが性科学から精神分析にどう変化したのかを、後半ではサドという作家が20世紀思想でどのように読み直されたのかを区別して扱う。単にサディズムの概要に関して知りたい場合は「サディズムとは?」を参考にしてほしい。また、サディズムの文学については「サディズムの文学とは?」に詳しく解説した。


サディズムの思想とは?

「サディズムの思想」を理解するためには、最初に二つの歴史を分ける必要がある。一つは、クラフト=エビング(Richard von Krafft-Ebing)によって性科学のカテゴリーとなったサディズムが、フロイト(Sigmund Freud)、アブラハム、クラインらの精神分析によって変形していく歴史である。ここでは、サディズムそのものが理論概念として扱われる。もう一つは、サド(Marquis de Sade)という作家とその作品が、20世紀の思想家によって読み直されていく歴史である。こちらでは必ずしも医学的なサディズムが論じられているわけではない。サドを通じて、自由、他者、死、否定、主権、法、欲望、享楽、制度、言語といった問題が考えられている。

系列主な人物中心となる問題
サディズム概念史クラフト=エビング、フロイト、アブラハム、クライン性、攻撃、力の行使、欲動、破壊性、対象関係
サド受容思想史クロソウスキー、ブランショ、ボーヴォワール、バタイユ、ラカン、ドゥルーズ、バルト自由、他者、否定、死、侵犯、法、享楽、制度、言語

この二つは途中で交差する。たとえばドゥルーズはサドという作家を論じると同時に、「サディズム/マゾヒズム」という概念の組み合わせそのものを批判した。しかし、だからといってフロイト、バタイユ、ラカン、バルトが同じ「サディズム理論」を順番に改良していったわけではない。むしろ、「サディズムの思想史」と呼ばれているもののかなりの部分は、正確にはサドとサディズムをめぐる複数の思想史が交差したものなのである。


サド本人の思想と「サディズムの思想」は同じではない

まず、サド本人は「サディズム」という思想を提唱していない。「サディズム」という語はサドの名前から後世に作られたものであり、サドが自分の哲学をそう呼んだわけではない。さらに19世紀末の性科学や20世紀の精神分析で成立したサディズム概念を、そのまま18世紀のサド本人へ遡及することもできない。

サド本人について論じる場合には、無神論、自然、自由、犯罪、法、政治、宗教批判など、サドの作品や思想に直接帰属できる問題を扱う必要がある。これらについては別記事「サドの思想とは?」で詳しく扱っている。本記事で重要なのはその後であり、20世紀の思想家たちはサドを、単なる「残酷な作家」や「性的異常の症例」としてではなく、近代的な自由や理性が極限まで進んだとき何が起こるのかを考えるための人物として読み始めた。そのため、「サド本人は何を考えていたか」と「後世の思想家がサドを使って何を考えたか」は区別しなければならない。


フロイトはサディズムをどう変えたのか?

サディズム概念史で最大の転換点の一つがフロイトである。19世紀性科学においてサディズムは、他者の苦痛、屈辱、服従などと性的満足が結びつく「倒錯」として分類された。しかしフロイトは、サディズムを特殊な性的嗜好だけの問題にとどめず、通常の性欲動に含まれる攻撃性、力の行使、能動性、さらに後には破壊性の問題へと組み替えていく。ただし、「フロイトはサディズムをこう定義した」と一文で要約することはできない。1905年、1915年、1920年、1924年で理論そのものが変化している[1]。

1905年:攻撃と圧倒

1905年の『性理論三篇』では、サディズムとマゾヒズムは性的倒錯の問題として扱われている。しかし、初期フロイトの段階から、サディズムは単なる「他人の痛みを楽しむ欲望」ではない。性的欲動に含まれる攻撃的な成分や、相手を圧倒する傾向が独立・誇張されたものとして考えられている。また、同じ人物の中にサディスティックな傾向とマゾヒスティックな傾向の双方が存在しうることも論じられる。

ここで重要なのは、「正常な性」と「倒錯」が完全に切り離されていないことである。フロイトにとって、倒錯的と呼ばれてきた要素の一部は通常の性生活にも構成要素として存在しうる。ただし『性理論三篇』は後年に何度も増補されているため、特定の文章が「1905年初版から存在した」と厳密に論じる場合には、後年版ではなく初版校訂版を確認する必要がある[1]。

1915年:苦痛より先に「力の行使」がある

1915年の「欲動とその運命」では、サディズムの初期形態としてまず他者への暴力や力の行使が置かれる。フロイトは、この段階では「相手に苦痛を与えること」それ自体を原初的な欲動目標とはしていない。これは一般的な「サディズム=他人が痛がるのを見るのが好き」という理解とはかなり異なる。

フロイトの1915年モデルでは、まず他者へ向かう暴力や力の行使があり、それが自分自身へ向け返され、さらに能動から受動へ反転することでマゾヒズムが成立する。その後、受苦する者への同一化を経て、他人に苦痛を与えることそのものがサディスティックな目的として意味を持つようになる。つまり、少なくともこの時期のフロイトにとって、サディズムの根底にあるのは「痛み」だけではない。他者を圧倒し、力を行使するという欲動の方向が重要なのである。

1920年:死の欲動による転換

1920年の『快楽原則の彼岸』で「死の欲動」が導入されると、それまでの説明は揺らぎ始める。1915年までの図式では、サディズムが先にあり、それが自分自身へ向け返されることでマゾヒズムになるという順序が中心だった。しかし死の欲動を導入すると、マゾヒズムをすべて二次的な自己反転として説明することが難しくなり、一次的なマゾヒズムが存在する可能性が前景化する。

注意しなければならないのは、死の欲動そのものがサディズムなのではないということである。死の欲動はフロイト後期のより基礎的な理論装置であり、サディズムはそこから破壊性や外向化、性的機能との関係で説明される。

1924年:一次的マゾヒズムとサディズムの再配置

1924年の「マゾヒズムの経済的問題」では、フロイトは一次的・エロゲノスなマゾヒズムを明確に認める。ここでは、破壊的な欲動の一部が外部へ向けられ、対象へ働きかける力となり、その一部が性的機能へ組み込まれた場合にサディズムとして現れるという新しい配置が示される。

したがってフロイトの理論は、1915年にはサディズムからマゾヒズムへの反転を中心にし、1924年には一次的マゾヒズムを認めたうえで、外向化された破壊性からサディズムを再配置する方向へ変わった。サディズムはここで、「特殊な人が他人の苦痛に興奮する」という性科学的カテゴリーから、攻撃、圧倒、能動/受動、破壊性、欲動の方向を考える概念へ大きく拡張されたのである。


アブラハムとクライン:サディズムはなぜ幼児期の問題になったのか?

フロイト以後、サディズム概念はさらに成人の性的行為から離れていく。カール・アブラハム(Karl Abraham)は1924年、前性器的な発達段階を細かく分け、口唇期や肛門期における攻撃性、破壊、保持、所有、統御などを対象との関係として整理した[2]。ただし「肛門サディズム的段階」という考えそのものをアブラハムが最初に作ったわけではない。フロイトが1913年に肛門サディズム的体制を論じており、アブラハムの重要性は、それをさらに段階化し、対象関係と結びつけて体系化した点にある。

ここではサディズムが、対象を咬む、破壊する、排出する、保持する、所有する、統御するといった前性器的な対象関係の問題へ拡張される。

クライン:幻想と破壊性

メラニー・クライン(Melanie Klein)は、この方向をさらに乳幼児期の幻想へ押し進めた。1930年前後のクラインにおいて重要なのは、乳幼児が幻想の中で母の身体内部を所有し、攻撃し、破壊しようとし、その報復を恐れるというモデルである[2]。

ここまで来ると、「サディズム」という言葉は成人の性的嗜好を説明する概念からかなり離れている。サディズムは、性的倒錯 → 性欲動の攻撃的成分 → 前性器的攻撃性 → 対象を所有・破壊する幼児期幻想へ変化した。なお、クライン理論で後に重要になる抑うつポジション、妄想‐分裂ポジション、投影同一化などは異なる時期に体系化されたものである。1930年時点の幼児的サディズム論へ、1940年代の概念をそのまま遡及させるべきではない。


20世紀思想はなぜサドを再発見したのか?

ここで話が大きく変わる。フロイト、アブラハム、クラインが扱っていたのは基本的に「サディズムという概念」である。しかし1940年代前後から、とくにフランス思想では、サディズムという臨床概念よりもサドという作家とその作品そのものが思想上の問題として前景化していく。1947年のクロソウスキー、1949年のブランショ、1951~52年のボーヴォワール、1957年のバタイユ、1963年のラカン、1967年のドゥルーズ、1971年のバルトと、サドを本格的に論じる重要な著作が続く[3]。

ただし、1947年を「サド思想研究が突然始まった年」と考えるべきではない。それ以前にもシュルレアリスム、バタイユの初期論考、ホルクハイマー(Max Horkheimer)とアドルノ(Theodor W. Adorno)の『啓蒙の弁証法』などによる読解が存在する[3]。1947年前後という区切りは、サドが戦後思想における哲学的な問題装置として強く前景化する時期を示す目安である。

ここから問われるのは「人はなぜ残酷になるのか」だけではない。自由を極限まで追求すると他者はどうなるのか、理性は暴力を抑えるものなのか、それとも暴力を組織することもできるのか、禁忌を侵犯するとはどういうことか、法と欲望は本当に反対なのか、欲望を命令する法はありうるのか、暴力を無限に語る言語はどのような構造を持つのか、といった問いが前景化する。サドは「サディストの代表者」から、近代の自由・理性・法・欲望の限界を試す思想的実験装置へ変わったのである。


クロソウスキー:サドは無神論者で終わるのか?

ピエール・クロソウスキー(Pierre Klossowski)は1947年に『わが隣人サド』を刊行し、1967年に大幅な改訂を行った[3]。クロソウスキーにとって、サドの無神論は単に「神はいない」という命題だけではない。神を否定したあと、何が人間を拘束するのか。法や規範を否定した欲望は、本当に自由なのか。あらゆる価値を破壊しようとする行為そのものが、新しい規範や反復を生み出してしまわないか。こうした問題が前景化する。

つまりサドの無神論は、単なる宗教批判ではなく、神、法、規範、欲動の関係そのものを不安定にする装置として読まれるのである。クロソウスキーは後の思想において記号、反復、シミュラクルなどの問題を深めていくが、それらを1947年版『わが隣人サド』の中心概念としてそのまま遡及させることには注意が必要である。1947年版と1967年改訂版も同一内容ではない。クロソウスキーのサド論を簡潔にまとめるなら、サドを単純な無神論者から、規範と欲望の矛盾を露呈させる作家へ読み替えたという位置づけが妥当である。


ブランショ:サディズムから「否定」と「言語」へ

モーリス・ブランショ(Maurice Blanchot)の『ロートレアモンとサド』は1949年に刊行された[3]。

1949年:理性・無感動・否定

1949年のサド論でまず重要になるのは、理性、無感動、否定である。サドの作品では、犯罪や性的行為がただ情熱的に描写されるだけではない。登場人物たちは犯罪を実行すると同時に、なぜ犯罪が正しいのか、なぜ道徳が誤っているのかを延々と論証する。その結果、暴力は激情の爆発というよりも、冷たい理性によって組織されるものとして現れる。

ブランショの読解を通すと、サドを読む問いは「なぜ人は残酷なのか」から、否定を極限まで押し進める理性は、どのような世界を作るのかへ変わる。

後期ブランショ:反復と言語

一方、反復や言語そのものを前景化する読解は、1949年の著作とその後のブランショを区別して扱う必要がある。 1965年の「根本的な不適切さ」や1969年の『終わりなき対話』では、サドにおける「すべてを語る」運動や、際限のない反復と言語の力がより重要な問題として現れる[3]。

したがって、ブランショのサド論は一枚岩ではない。1949年には理性・無感動・否定が前景化し、後期にはそこから反復と言語の問題がさらに展開されていく。 こうしてサドは、異常性癖を描く作家から、否定と語ることの限界を考える作家として位置づけられるようになった。ただし、こうした文学的・思想的再評価をブランショ一人が始めたわけではなく、クロソウスキーなど並行する複数の受容が存在した。


ボーヴォワール:サドと「他者の自由」

シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)は1951~52年に「サドを焼くべきか?」を発表した[4]。ここでサドは、自由と他者を考えるための問題になる。人間が自分の自由を徹底的に肯定するとする。しかし、その自由が他者の身体や人生を自分の目的のために利用する自由になったとき、何が起こるのか。

サド的主体は、自分の欲望と自由を極端まで押し進める。しかし、目の前の他者もまた、自分と同じように自由な存在である。そこで、自分の自由と他者の自由はどう両立するのかという問題が生じる。他者を完全な物として扱えば、自分は自由に振る舞えるように見える。しかし、相手が本当にただの物なら、その相手を征服することにどれほどの意味があるのか。支配は、他者が自分とは異なる自由な存在であるからこそ成立する。したがって、サドの世界では他者を消去しようとする欲望と、他者を必要とする欲望が矛盾する。

ボーヴォワールはサドを全面的に肯定したわけでも、単純に悪として焼き捨てるべきだと結論したわけでもない。サドを通じて、身体を持つ自由が他者の自由と出会ったときに生じる葛藤を考えたのである。


バタイユ:禁忌・侵犯・死・主権

ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)のサド読解では、「侵犯」が中心的な問題になる。ただし、バタイユの侵犯は単なる「ルールを破ること」ではない[5]。もし禁忌そのものが完全になくなってしまえば、侵犯も存在しない。侵犯とは、禁忌を破壊して消滅させることではなく、禁忌が存在するからこそ、その境界を越える経験として成立する。

性、暴力、死、涜聖などがバタイユにとって重要なのも、そのためである。人間社会は死や性に一定の禁止を設ける。しかし同時に、人間はその禁止を越えようとする。禁止と侵犯は、単純な敵同士ではなく、互いを必要とする。1957年の『エロティシズム』や『文学と悪』では、サドはこの極端な関係を考えるための重要な人物となる。

さらにバタイユにとってサドは、「主権」の問題にも関わる。労働、保存、将来への計算、社会的有用性といった日常的秩序を拒み、現在の消費や過剰へ向かう存在としてサド的主体が読まれる。しかし、バタイユがサドの犯罪や性的加虐をそのまま道徳的に推奨したわけではない。 また、バタイユ自身の「主権」という概念を、そのまま歴史的人物サド本人の思想として帰属させることもできない。バタイユにおいてサドは、禁忌、侵犯、死、エロティシズム、主権の関係を極限状態で考えるための試金石なのである。


ラカン:「カントとサド」は何を意味するのか?

ジャック・ラカン(Jacques Lacan)の「カントとサド」は1963年に発表され、1966年の『エクリ』にも収録された[6]。このタイトルだけを見ると、ラカンは「カントはサディストだった」と主張したようにも見える。しかし、そうではない。ラカンが比較しているのは、カント個人の性格とサド個人の性格ではなく、法や命令が主体に対してどのような形式で働くのかという構造である。

カントの道徳法則は、快楽や個人的利益とは無関係に「~すべきである」と主体へ命令する。一方、サドの作品では、享楽や性的行為が「好きだから行う」という私的な快楽を超え、ほとんど法のような命令として組織されることがある。ここでラカンが見出すのは、道徳と悪徳が同じだという単純な話ではない。むしろ、欲望に制限を加えるはずの法と、享楽を命じる命令は、本当に完全な反対物なのかという問いである。

通常、法は欲望を禁止するものだと考えられる。しかし、法そのものが「享楽せよ」という命令の形を取ったらどうなるのか。この比較を通じて、サドは法、欲望、大他者、幻想、享楽の構造を考えるための材料となる。「カントとサド」は難解な論文だが、少なくとも「カント=サディスト」という心理診断ではないことは明確にしておく必要がある。


ドゥルーズ:サディズムとマゾヒズムは本当に一組なのか?

ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)は1967年の『ザッヘル=マゾッホ紹介』で、サディズムとマゾヒズムを一つの「サドマゾヒズム」としてまとめる伝統に強い疑問を投げかけた[7]。この問題関心には前史があり、ドゥルーズは1961年に論文「ザッヘル=マゾッホからマゾヒズムへ」を発表し、1963年にもマゾッホをめぐる議論を展開している。1967年の著作は、そうした考察を大きく体系化した位置にある[7]。

19世紀性科学では、サディズムとマゾヒズムは能動/受動、加虐/受苦という対概念として整理された。フロイトは両者の相互転換や同一人物内での共存を論じた。しかしドゥルーズは、サドとザッヘル=マゾッホの作品を比較すると、両者は単純な鏡像関係ではないと考える。

サド側の「制度」

ドゥルーズの読解では、サド側では制度が重要になる。サドの世界には、規則、秩序、組織、法の転倒、理論的演説、非人格的な制度が存在する。リベルタンは単にその場の気分で残酷な行為をするのではなく、欲望を制度的・論理的に組織しようとする。

マゾッホ側の「契約」

これに対してマゾッホの作品では、契約、教育、待機、演出などが重要になる。被虐者はただ一方的に苦痛を受けるのではなく、関係を構成する条件を作り、契約を結び、相手を特定の役割へ導く。そのため、サディズムを能動、マゾヒズムを受動とするだけでは両者の違いを説明できない。

ドゥルーズが批判したのは、同じ一つの欲動を裏返せばサディズムとマゾヒズムになるという相補的な図式である。ただし、この議論を「ドゥルーズが医学的にサドマゾヒズムという現象の不存在を証明した」と理解するのは誤りである。これは文学、精神分析、症候学、法の形式などを横断した哲学的・批評的議論である。


バルト:サドを「言語の体系」として読む

ロラン・バルト(Roland Barthes)は1971年の『サド、フーリエ、ロヨラ』で、サドをフーリエ、ロヨラと並べて、独自の言語を創設する者として論じた[8]。バルト自身は三者を「ロゴテート」、すなわち言語の創設者として扱う。そして、その言語創設の操作を、孤立させること、分節すること、秩序づけること、演劇化することという四つの操作から整理している[8]。

ここでは、サドを理解する中心がさらに変化する。問題は「サドはどれほど残酷な人間だったのか」ではなく、サドの作品では、身体・行為・人物・食事・場所・欲望がどのように分節され、秩序づけられ、組み合わされ、言語化されているのかになる。サド作品では、身体は細かく区分され、行為は列挙され、人物は役割ごとに配置され、欲望は組み合わせとして増殖していく。ここでは性や残酷さも、単なる激情ではなく、一つの巨大な言語体系を構成する要素になる。

20世紀初頭に本文校訂と前衛的評価を通じて再発見されたサドは、半世紀以上を経て、バルトのもとでは新しい言語を作る作家として読むことさえ可能になった。 これは、サド受容が医学的なサディズム概念からどれほど遠くまで移動したかを象徴している。


サディズムの思想史は何を考えてきたのか?

ここまでの思想史を並べると、「サディズム」が一つの定義のまま発展してきたわけではないことが分かる。

問題主な思想家
攻撃・圧倒・力の行使フロイト
欲動の能動/受動フロイト
破壊性・対象フロイト、アブラハム、クライン
自由・身体・他者ボーヴォワール
無神論・規範・欲動クロソウスキー
理性・無感動・否定(1949)/反復・言語(後期)ブランショ
禁忌・侵犯・死・主権バタイユ
法・欲望・享楽ラカン
制度・契約ドゥルーズ
分節・秩序・言語創設バルト

19世紀性科学では、サディズムはまず性的な倒錯の分類だった。フロイトはそこから攻撃、力の行使、欲動の方向、破壊性を取り出し、アブラハムとクラインはそれを発達と対象関係へ広げた。一方、戦後思想ではサドそのものが、自由と他者、禁忌と侵犯、法と欲望、否定と言語を考えるための装置になった。

よって「サディズムの思想史」を、残酷なことを肯定する思想がだんだん高度になっていった歴史と理解するのは正しくない。むしろ、「他人を苦しめる快楽」という問題から出発した言葉が、力、他者、自由、法、破壊、死、欲望、言語という別の問題群へ枝分かれしていった歴史と考えた方がよい。また、この変化は一本の進歩史でもない。ボーヴォワールの自由と他者、バタイユの侵犯、ラカンの法と享楽、バルトの言語体系は、同じ問いに対する新旧の答えではない。それぞれ異なる問題系がサドという極端な作品世界を通して交差したのである。


サディズムとマゾヒズムは思想上どう違うのか?

サディズムとマゾヒズムの関係そのものも、思想史の中で変化した。19世紀性科学では両者が加虐/受苦、能動/受動という対概念として整理され、フロイトはそこに相互転換や同一人物内での共存を導入した。1913年にはイジドール・ザドガー(Isidor Sadger)が「サド=マゾヒズム的複合について」を発表しており、初期精神分析で両者を複合として扱う明瞭な例が確認できる[1]。その後ドゥルーズは、サドとマゾッホを一つの欲動の表裏として統合する考え方自体を批判した。

非常に単純化すれば、クラフト=エビング=対概念化、フロイト=相互転換・共存、初期精神分析=複合化、ドゥルーズ=複合そのものを批判という違いになる。したがって、現代の日常語で使われる「SかMか」という性格診断的な二択と、思想史上のサディズム/マゾヒズム論は別問題である。


よくある質問

サディズムには一つの哲学がありますか?

ありません。「サディズムの思想」という表現は便利だが、歴史上「サディズム哲学」という統一体系が存在したわけではない。本記事では、サディズム概念の精神分析史と、サドをめぐる20世紀思想の受容史を区別したうえでまとめている。

フロイトはサディズムを「他人を苦しめる快楽」と考えたのですか?

それだけではない。とくに1915年のフロイトでは、初期のサディズムにおいて重要なのは他者への暴力や力の行使であり、苦痛を与えることそのものを原初的な欲動目標とはしていない。その後、死の欲動や一次的マゾヒズムの導入によって理論自体も変化した。

死の欲動はサディズムと同じですか?

同じではない。死の欲動はフロイト後期のより基礎的な理論概念であり、サディズムはその外向化、破壊性、性的機能などとの関係で位置づけられる。

バタイユはサディズムを肯定したのですか?

単純にそうとはいえない。バタイユはサドを、禁忌、侵犯、死、エロティシズム、主権を考える極端な例として利用した。サド作品内の犯罪や加虐行為を、そのまま道徳的に推奨したという意味ではない。

ラカンはカントをサディストだと言ったのですか?

違う。「カントとサド」はカント個人を性的サディストと診断する論文ではない。カント的な道徳法則とサド的な享楽の命令を、主体に働きかける法の形式という観点から比較する議論である。

ドゥルーズはサディズムとマゾヒズムを完全に別物と考えたのですか?

ドゥルーズは、両者を一つの欲動の能動側/受動側としてまとめる説明を批判した。サド側の制度とマゾッホ側の契約など、異なる構造を強調する。ただし、これは医学的に「両傾向が同一人物に存在することはない」と証明したという意味ではない。


まとめ:サディズムは「残酷さ」から他者・法・欲望の問題へ拡張された

サディズムの思想史は、「他人を苦しめることを肯定する哲学」の歴史ではない。19世紀末に性的倒錯のカテゴリーとなったサディズムは、フロイトによって攻撃、圧倒、力の行使、能動/受動、破壊性の問題へ組み替えられた。アブラハムとクラインはさらに、それを前性器的発達、幼児期幻想、対象関係へ広げた。

そして1940年代前後からは、医学的なサディズム概念とは別に、サドという作家そのものが20世紀思想の重要な問題となる。クロソウスキーは規範と欲望、ブランショは否定と言語、ボーヴォワールは自由と他者、バタイユは禁忌と侵犯、ラカンは法と享楽、ドゥルーズは制度と契約、バルトは言語創設と分節・秩序の問題としてサドを読み直した。

その結果、「サディズム」をめぐる問いは、性的倒錯 → 攻撃と力の行使 → 欲動と破壊性 → 自由と他者 → 禁忌と侵犯 → 死と主権 → 法と享楽 → 制度・反復・言語へと広がっていった。ただし、これは一本の思想が順番に発展した歴史ではない。異なる時代、異なる思想家が、サドとサディズムを別々の問いのために利用した結果である。

したがって、「サディズムの思想とは何か」という問いに最も正確に答えるなら、こうなる。サディズムの思想とは一つの思想ではない。それは、サディズムという概念とサドという作家を通じて、人間の欲望、暴力、自由、他者、法、死、そして言語の限界が繰り返し問われてきた思想史である。


この記事の調査について

本記事では、「サディズム思想」という単一の思想体系を想定していない。性科学・精神分析におけるサディズム概念史と、主として20世紀フランス思想におけるサド受容思想史を区別した。サディズム概念史については、クラフト=エビングからフロイト、アブラハム、クラインへの変化を中心に扱った。ただし、この概念史そのものがクラインで終了したという意味ではない。本記事では思想上の変化を示すため、記事の目的に必要な範囲を重点的に扱った。

フロイトについては、1905年、1915年、1920年、1924年の理論を同一視していない。とくに1915年では苦痛付与そのものを原初的な欲動目標とせず、暴力や力の行使を先行させる点、1920~24年には死の欲動と一次的マゾヒズムの導入によって発生論的位置が変化する点を区別した。クラインについては1930年の幼児的サディズムと、1935年以降の抑うつポジション、1946年の妄想‐分裂ポジションや投影同一化を混同していない。

20世紀思想については、1947年前後をサドが思想的装置として前景化する分析上の境界として扱った。ただし、それ以前のサド受容を否定する「開始年」とはしていない。また、クロソウスキーの1947年版と1967年改訂版、ブランショの1949年と1965・69年の議論、ラカンの1963年初出版と1966年『エクリ』版を区別し、原典の頁や版差が完全に固定されていない箇所については直接引用を避けた。


注

  1. フロイトのサディズム/マゾヒズム論については、Sigmund Freud, Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie(『性理論三篇』), 1905、後年改訂;“Triebe und Triebschicksale”(「欲動とその運命」), 1915;Jenseits des Lustprinzips(『快楽原則の彼岸』), 1920;“Das ökonomische Problem des Masochismus”(「マゾヒズムの経済的問題」), 1924を参照。『性理論三篇』の1905年初版帰属については後年版英訳だけに依存せず、Van Haute、Westerinkらによる初版校訂研究を優先する。初期精神分析における「サド=マゾヒズム的複合」についてはIsidor Sadger, “Über den sado-masochistischen Komplex,” Jahrbuch für psychoanalytische und psychopathologische Forschungen, vol. 5, 1913を参照。
  2. Karl Abraham, “A Short Study of the Development of the Libido, Viewed in the Light of Mental Disorders,” 1924。Melanie Klein, “The Importance of Symbol-Formation in the Development of the Ego,” 1930;“A Contribution to the Psychogenesis of Manic-Depressive States,” 1935;“Notes on Some Schizoid Mechanisms,” 1946。肛門サディズム的体制の命名についてはフロイト1913年が先行する。
  3. Pierre Klossowski, Sade mon prochain, 1947、1967年改訂。Maurice Blanchot, Lautréamont et Sade, 1949;“L’Inconvenance majeure”, 1965;L’Entretien infini, 1969。戦後サド受容の境界を1947年前後に置くのは分析上の整理であり、厳密な「思想的サド受容の開始年」を意味しない。それ以前の重要な受容としてMax Horkheimer / Theodor W. Adorno, Dialektik der Aufklärung, 1944、1947年刊行版などがある。
  4. Simone de Beauvoir, “Faut-il brûler Sade?”, Les Temps modernes, 1951–1952;のちPrivilèges, 1955。ボーヴォワールの中心問題は、サドを通じた自由、身体、他者、相互性の問題として整理した。
  5. Georges Bataille, L’Érotisme, Paris: Minuit, 1957;La Littérature et le mal, 1957。バタイユにおける侵犯は禁忌を単に廃絶することではなく、禁忌を前提としてその境界を越える関係として扱われる。バタイユ固有の「主権」をそのままサド本人の思想へ帰属させない。
  6. Jacques Lacan, “Kant avec Sade,” Critique, no. 191, 1963;のちÉcrits, 1966。1963年初出版と1966年版には差異があるため、厳密な直接引用では版指定が必要。「カントとサド」はカント個人をサディストと診断する論文ではない。
  7. Gilles Deleuze, “De Sacher-Masoch au masochisme,” Arguments, no. 21, 1961, pp. 40–46;1963年のマゾッホをめぐる放送・議論を経て、Présentation de Sacher-Masoch: Le froid et le cruel, Paris: Éditions de Minuit, 1967。1967年著作ではサディズム/マゾヒズムの相補的統一への批判、サド側の制度とマゾッホ側の契約の対比を扱う。ただし、この議論は医学的実証ではない。
  8. Roland Barthes, Sade, Fourier, Loyola, 1971。バルトはサド、フーリエ、ロヨラを「logothète(言語の創設者)」として扱い、言語創設の操作を s’isoler、articuler、ordonner、théâtraliser の四つに整理する。本記事本文の「分類」「組み合わせ」等は、この読解を説明するための整理語である。詳細な文学形式については「サディズムの文学とは?」で扱う。

参考資料・主要出典

  • Sigmund Freud. Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie. 1905、後年改訂。
  • Sigmund Freud. “Triebe und Triebschicksale.” 1915.
  • Sigmund Freud. Jenseits des Lustprinzips. 1920.
  • Sigmund Freud. “Das ökonomische Problem des Masochismus.” 1924.
  • Isidor Sadger. “Über den sado-masochistischen Komplex.” Jahrbuch für psychoanalytische und psychopathologische Forschungen, vol. 5, 1913.
  • Karl Abraham. “A Short Study of the Development of the Libido, Viewed in the Light of Mental Disorders.” 1924.
  • Melanie Klein. “The Importance of Symbol-Formation in the Development of the Ego.” 1930.
  • Melanie Klein. “A Contribution to the Psychogenesis of Manic-Depressive States.” 1935.
  • Melanie Klein. “Notes on Some Schizoid Mechanisms.” 1946.
  • Max Horkheimer / Theodor W. Adorno. Dialektik der Aufklärung. 1944/1947.
  • Pierre Klossowski. Sade mon prochain. 1947;édition remaniée, 1967.
  • Maurice Blanchot. Lautréamont et Sade. Paris: Éditions de Minuit, 1949.
  • Maurice Blanchot. “L’Inconvenance majeure.” 1965.
  • Maurice Blanchot. L’Entretien infini. 1969.
  • Simone de Beauvoir. “Faut-il brûler Sade?” Les Temps modernes, 1951–1952;Privilèges, 1955.
  • Georges Bataille. L’Érotisme. Paris: Éditions de Minuit, 1957.
  • Georges Bataille. La Littérature et le mal. Paris: Gallimard, 1957.
  • Jacques Lacan. “Kant avec Sade.” Critique, no. 191, 1963;Écrits, 1966.
  • Gilles Deleuze. “De Sacher-Masoch au masochisme.” Arguments, no. 21, 1961, pp. 40–46.
  • Gilles Deleuze. Présentation de Sacher-Masoch: Le froid et le cruel. Paris: Éditions de Minuit, 1967.
  • Roland Barthes. Sade, Fourier, Loyola. 1971.
  • Lode Lauwaert. Marquis de Sade and Continental Philosophy. Edinburgh University Press, 2019.

※本記事はATTESTED記事です。事実記述は実在し確認可能な資料に基づき、第三者の見解、筆者による推論・解釈・評価を含む場合には、それらを確認済みの事実と混同しない形で記載しています。現実の事実として提示される意図的な虚構や捏造は含みません。

visceraをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む