サディズムの文学とは?|サド的文学・残酷文学との違い、代表作・特徴を解説

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残酷な小説を、すべて「サディズム文学」と呼ぶことはできない。拷問や殺人が大量に描かれていても、それだけでマルキ・ド・サドの文学と同じ形式を持つわけではないし、BDSMを扱う小説がそのままサド的文学になるわけでもない。

そもそも「サディズム文学」は、ロマン主義やシュルレアリスムのように、成立時期、綱領、作家集団、共通した形式を持つ安定した歴史的ジャンル名ではない。実際には、サドを直接受容した文学、苦痛・加虐・支配を主題とする文学、サドに特徴的な反復・分類・数量化・制度化などの形式を持つ文学が、「サディズム文学」という曖昧な言葉の下で混同されてきた。したがって本記事では、「サディズム文学」を固定ジャンルとは考えない。サド本人の作品を比較基準としながら、後代の文学を受容・主題・形式という三つの軸から整理する。そこで見えてくるのは、サド文学の特徴が単なる「残酷さ」ではなく、むしろ欲望、身体、暴力を分類し、反復し、制度として組織することにあるという点である。

単にサディズムの概要に関して知りたい場合は「サディズムとは?」を参考にしてほしい。また、サディズムの思想については「サディズムの思想とは?」に詳しく解説した。


サディズム文学とは?

「サディズム文学」という言葉を使う場合、最初に三つを分ける必要がある。

軸問うこと典型例
受容サド本人・作品・思想を明示的に受容しているか『マラー/サド』『サド侯爵夫人』『事の次第』
主題苦痛・性的加虐・支配・服従が中心的な主題か『O嬢の物語』『拷問庭園』『アメリカン・サイコ』
形式欲望・身体・暴力を反復・分類・数量化・組み合わせ・制度・論証へ変換するか『ソドム百二十日』『事の次第』など

この三つは一致するとは限らない。サドを直接扱っていても、作品形式までサドに似ているとは限らない。逆にサドを明示的に引用していなくても、欲望を分類・制度化する形式が比較可能な作品は存在する。また、登場人物が他人を残酷に殺害する作品でも、サドとの受容関係や形式的類似がほとんどなければ、「サド的文学」と呼ぶ根拠は弱い[1]。

そこで本記事では、「サディズム文学」を、サドの直接受容、サディズムの中心的主題化、またはサドに特徴的な欲望・身体・暴力の体系化形式のいずれかを重要な構成原理として持つ文学を比較するための便宜的な総称として使用する。重要なのは、「暴力が多いか」ではなく、その暴力や欲望が作品の中でどのように組織されているかである。


「サド的文学」と「サディスティックな文学」は何が違うのか?

ここでは「サド的文学(Sadean literature)」と「サディスティックな文学(sadistic literature)」を区別する。サディスティックな文学とは、比較的単純にいえば、他者の苦痛、加虐、支配、性的暴力などを重要な主題として描く文学である。サディスティックな人物が登場する、拷問が繰り返される、殺人者が他人の苦痛を楽しむ、といった作品はこちらに含めやすい。

しかし、サド的文学という場合には、それだけでは足りない。サドの作品に特徴的なのは、残酷行為の存在だけではなく、それを反復し、数え、分類し、組み合わせ、規則化し、哲学的に正当化することである[2]。したがって、「残酷である=サディスティックである=サド的である」という等式は成立しない。たとえば殺人や拷問が一度だけ極端に描かれる小説よりも、暴力自体は比較的弱くても、身体の位置、命令、反復、規則、組み合わせが作品全体を構成している小説の方が、形式上はサドに近い場合がある。この意味で、サド的文学とサディスティックな文学は重なることはあっても、同じカテゴリーではない。


サド文学の何が「サド的」なのか?

サド文学の特徴を単に「残酷」「猥褻」「反道徳」と説明すると、かなり重要な部分が抜け落ちる。サドに似た残酷さなら他の文学にも存在するからである。形式に注目すると、少なくとも五つの特徴が見えてくる[2]。

反復・列挙・分類・数量化

第一は、行為を並べ、分類し、数えることである。サドでは性的行為や犯罪が、一回的な事件として描かれるだけではない。同種の行為が繰り返され、差異をつけられ、種類として整理され、さらに強度によって段階化される。欲望が物語になるだけでなく、欲望のカタログが作られるのである。

身体を部位・機能・位置へ分解する

第二は身体の扱いである。通常の物語では身体は一人の人物の人格的な身体として扱われる。しかしサドでは、身体がしばしば部位、穴、機能、位置、役割に分解され、交換可能な組み合わせの一部として扱われる。誰がどこに位置し、誰がどの部位を使い、誰がどの役割を演じるか。身体は「人間の内面を表現するもの」というより、欲望を実行するための配置へ近づく。

欲望を制度化する

第三は、とくに重要な特徴である。サドでは個人的な欲望が、単なる秘密の嗜好に留まらない。それが閉鎖空間、規則、階級、時間割、命令、儀礼、罰へ変換される。つまり、個人の欲望が一つの制度になる。 暴力は多くの文学にある。反復も多くの文学にある。しかし、欲望を空間・時間・階級・規則へ変換するこの形式は、サドを他の残酷文学から区別する有力な手掛かりになる。

性行為と哲学演説を交互に置く

第四は、行為と論証の組み合わせである。サドの登場人物は、ただセックスや犯罪を実行するだけではない。その途中で、自然、宗教、法、犯罪、道徳、政治などについて長大な議論を始める。そして再び行為へ戻る。行為 → 論証 → 行為 → 論証という循環によって、欲望は衝動ではなく「理論」としても組織される。

道徳と読者の位置を反転させる

第五は、道徳的因果と読者の位置である。『ジュスティーヌ』では、美徳を守ろうとする主人公が繰り返し不幸に遭う。対して『ジュリエット』では、悪徳や犯罪を選ぶ人物が繁栄していく。通常の道徳物語の因果関係が意図的に反転される。しかも読者は、その反転された世界を長時間追跡させられる。作品を理解するには、リベルタンたちが作る規則、分類、論証を一時的に追わなければならない。そのためサド文学は、読者へ単に残酷な場面を「見せる」だけではなく、読者を、その異様な体系を理解する観察者の位置へ置く。


『ソドム百二十日』:欲望を「制度」にする文学

サド的形式を最も明瞭に示す作品の一つが『ソドム百二十日』である。作品では、隔離された城の内部で、欲望が時間・空間・階級・規則によって徹底的に組織される。四か月が四段階に分けられ、それぞれ一人の語り手が一日五つ、三十日間にわたって「情欲」を語る設計になっている。計画上は一か月150、全体で600の情欲が配置される[2]。

しかも段階は、単純 → 複合 → 犯罪的 → 殺人的と進む。これは単に「物語の後半ほど残酷になる」という意味ではない。分類体系自体が、暴力のエスカレーションを作っている。 さらに城には規則、階級、時間割、命令、罰があり、誰が誰に何をするのかも組織される。欲望は自由奔放な無秩序ではなく、むしろ異様なほど管理された制度になる。

ここにサド文学の逆説がある。道徳や法を破壊しようとする登場人物たちは、無秩序へ向かうのではない。むしろ彼ら自身が、道徳よりも過剰なほど細かい別の秩序を作る。 また、『ソドム百二十日』は第一部のみが完成稿で、後半部分は設計やリストに近い状態で残された。それにもかかわらず、その未完成性は作品の形式的特徴をむしろ露出させている。後半へ進むほど、小説が物語から「欲望の設計図」へ近づいていくからである。


サド的文学は読者に何をするのか?

サド作品の長大な反復を、「読者を性的に興奮させるため」とだけ説明するのは不十分である。もちろん刺激的な場面は存在する。しかし同じ形式が何度も反復され、欲望が分類され、演説が長く続くと、読者の反応は単純な興奮だけではなくなる。刺激を受ける。分類を理解する。道徳的な反発を感じる。リベルタンの論証を読む。再び似た行為が始まる。それが何度も繰り返される。その結果、興奮 → 飽和 → 疲労 → 退屈 → 嫌悪といった反応も生じうる[3]。

ここで注意したいのは、「サドは読者を意図的に退屈させようとした」と作者の心理を断定することではない。言えるのは、過剰な反復と体系化が、構造的に飽和や疲労を生みうるということである。また、「読者がサド作品の共犯者になる」という表現も慎重に使う必要がある。これは読者に加虐欲望があるという心理診断ではない。作品を理解するために、読者が一時的にその規則や分類、論証を認知的に追跡させられるという意味である。サド文学は、読者を安全な外部に置き続けない。


サドを直接受容した文学

後代文学をサドとの関係から考える場合、まず最も確実なのは、作者や作品がサドを明示的に扱っている例である。

ペーター・ヴァイス『マラー/サド』

ペーター・ヴァイス(Peter Weiss)の『マラー/サド』は1964年の戯曲で、サド本人を劇中人物として登場させる[4]。ここで重要なのは、作品が「残酷だからサド的」なのではないということである。サドという歴史的人物が、革命、暴力、個人、社会をめぐる議論の中心へ配置されている。したがってこれは、非常に明瞭なサド受容文学である。ただし、劇中のサドを歴史的人物サドの忠実な再現とみなすことはできない。ヴァイスによって再構成されたサド像である。

三島由紀夫『サド侯爵夫人』

三島由紀夫の『サド侯爵夫人』は1965年に発表された。特徴的なのは、題名にサドの名がありながら、サド本人が舞台に登場しないことである[4]。複数の女性がサドについて語り、それぞれ異なる像を作り上げる。サドは不在の中心として存在する。したがって、この作品を「サディスティックな残酷劇」と考えると本質を外す。むしろ、他者の言葉によってサドという人物像が構築されていく作品である。

ベケット『事の次第』

サミュエル・ベケット(Samuel Beckett)の『事の次第(Comment c’est)』は、さらに興味深い例である。ベケット自身が1930年代にサドを読んでいたことを示す資料があり、さらに近年の研究では『事の次第』と『ソドム百二十日』の具体的な作品内接続が論じられている[5]。

『事の次第』では、身体の位置、命令、反復、組み合わせ、閉鎖された世界、機械的な運動などが重要になる。つまりこの作品は、サディスティックな主題が特別強いわけではないにもかかわらず、サド受容+作品内の接続+形式的類似が重なる珍しい例である。ここから分かるのは、サド的文学を「加虐行為が多い文学」と定義すると、むしろ重要な作品を見落とすということである。


バタイユ『眼球譚』:サドを受け継ぎながら別の形式へ

ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)の『眼球譚』は1928年に刊行された。バタイユ本人がサドを強く受容していたことは、後年のサド論から明瞭に確認できる。しかし、『眼球譚』をそのまま「サドの模倣」と考えることはできない[6]。

両者には、性、死、冒瀆、身体、反復、禁忌侵犯といった共通点がある。しかし形式はかなり違う。サドでは、身体や行為が分類され、数えられ、制度の中へ配置される。これに対して『眼球譚』では、眼球、卵、液体、太陽、器官などが次々と結びつき、比喩や連想によって変形していく。簡単にいえば、サド=分類・制度・論証/バタイユ=イメージ・連想・置換という違いがある。だからこそ『眼球譚』は重要である。これは、サドを強く受容した作家が、サドの文学形式をそのまま再生産せず、別の文学機構へ変換した例だからである。


『O嬢の物語』はサディズム文学なのか?

ポーリーヌ・レアージュ(Pauline Réage)の名で1954年に刊行された『O嬢の物語』は、「サディズム文学」を考えるときの典型的な境界作品である[7]。作品の中心には、支配、服従、所有、規律、性的な権力関係がある。その意味では、サディズムやBDSMとの関係を考えることは自然である。

しかし、それをそのまま「サド文学」と呼ぶことには問題がある。『O嬢の物語』にも規則、訓練、身体の配置、所有など、サドと比較できる要素がある。一方で、『ソドム百二十日』に見られるような巨大な欲望分類、数量化、哲学演説、体系的な犯罪カタログとは異なる。したがって、『O嬢の物語』は、サディズム/支配を主題とする文学と、サド的文学の境界にある作品と見るのが適切である。この作品は、BDSM文学とサド的文学が重なりうることを示すと同時に、両者が同じカテゴリーではないことも示している。


『拷問庭園』と残酷文学:暴力が多ければサド的なのか?

オクターヴ・ミルボー(Octave Mirbeau)の『拷問庭園』は1899年の小説で、拷問、エロティシズム、植民地主義的暴力、見世物としての残酷などを扱う[8]。表面的には、かなり「サド的」に見える。拷問が列挙され、暴力が鑑賞の対象となり、閉鎖された場所に残酷な行為が配置される。そのためサドとの形式比較も可能である。

しかし、今回の調査では、ミルボー本人がサドを直接読み、特定の技法を借用したとまで断定できる一次資料は確認していない。ここで重要なのは、似ていることと、影響を受けたことは違うという点である。文学史では、作品Aと作品Bが似ているだけで「AがBに影響を与えた」とすることはできない。作者の発言、書簡、引用、明示的な作品内接続、または十分な研究史が必要になる。『拷問庭園』は、まさに「形式的比較」と「直接影響」を区別するためのよい例である。


『マルドロールの歌』とジュネ:サドの「直系」なのか?

ロートレアモン(Lautréamont)の『マルドロールの歌』には、残酷、冒瀆、誇張、身体変容、読者への攻撃など、サドと比較しやすい要素がある。さらにモーリス・ブランショは『ロートレアモンとサド』で両者を明示的に並べて論じている。そのため、批評史上サドと比較されてきた作品と呼ぶことはできる[8]。しかし、ロートレアモンがサドを直接読んで、その技法を借用したとまでは確認されていない。

ジャン・ジュネ(Jean Genet)についても同様である。犯罪、悪、性愛、聖性の反転など、サドと比較できる要素は多い。しかし「ジュネはサドの直系の後継者だった」と一本の系譜を作るには証拠が足りない。ここでも重要なのは、受容と比較を分けることである。文学史はしばしば「サド → バタイユ → ジュネ → 現代侵犯文学」のような一本線で語られる。しかし実際には、それぞれの作品が別の伝統、政治、宗教、性愛観、文学形式を持っている。サドとの比較可能性だけで「直系」としてまとめるべきではない。


『アメリカン・サイコ』はなぜサド的とは限らないのか?

ブレット・イーストン・エリス(Bret Easton Ellis)の『アメリカン・サイコ』は1991年の小説である。性的暴力、殺人、身体解体、反復、無感動、長大な列挙。表面的な特徴だけを並べれば、かなり「サディズム文学」らしく見える。しかし、ここで『アメリカン・サイコ』をサド文学と同じものとして扱うと、違いが見えなくなる[9]。

サドでは、身体が欲望の制度の中で組み合わせ可能な単位へ変換される。閉鎖された空間、階級、規則、時間割、哲学的論証などがその欲望を支える。『アメリカン・サイコ』にも列挙と反復はあるが、それらは商品名、レストラン、服装、ブランド、消費、外見などの言語とも強く結びついている。身体もまた、商品と同じように交換・消費可能なものとして見えてくる。

つまり、両者には残酷さや反復という表面的な共通点があっても、作品を作動させている体系が違う。 『アメリカン・サイコ』はこの意味で、サド的文学を理解するための「負の対照」として有用である。極端に残酷な文学でも、必ずしもサド的ではない。 この一点を非常に明瞭に示すからである。


サディズム文学とBDSM文学は同じなのか?

同じではない。BDSM文学では、拘束、規律、支配、服従、役割、性的権力交換などが重要な主題となりうる。そこには当然、サディズムやマゾヒズムの表象も含まれる。しかし、合意された支配/服従関係を描くことだけで、作品がサド的になるわけではない。

サド的形式で重要なのは、欲望の分類、数量化、身体の組み合わせ、制度化、哲学的論証、道徳因果の反転などである。逆に、サド的文学が現代的なBDSMを描く必要もない。『O嬢の物語』のように両者の境界に位置する作品は存在するが、BDSM文学=サディズム文学=サド的文学とはならない。


サディズム文学と侵犯文学は同じなのか?

「侵犯文学」あるいは英語圏でいうトランスグレッシブ・フィクションは、サド的文学よりはるかに広い。侵犯文学では、性、犯罪、薬物、身体、自己破壊、反社会性、禁忌、形式実験などが扱われる。しかし、これらはサドを経由しなくても成立する。したがって、「サドがいて、そこから一直線に現代侵犯文学が生まれた」という系譜は採用できない[10]。

キャシー・アッカー(Kathy Acker)の『Blood and Guts in High School』のような作品には、性的暴力、ショック、断片化、コラージュ、読者への挑発がある。その点ではサドと比較できる。しかし、その主要な形式は分類や数量化よりも、引用、盗用、断片、画像と文字の混在などにある。つまり、侵犯的である=サド的であるではない。サドは後代の侵犯文学にとって重要な祖型や参照点にはなりうるが、侵犯文学全体の唯一の起源ではない。


アルトーの「残酷演劇」はサディズムなのか?

アントナン・アルトー(Antonin Artaud)の「残酷演劇」も、言葉だけを見ればサディズムと結びつけたくなる。しかし、ここでいう「残酷」は単純な加虐趣味を意味しない。アルトーの残酷は、観客の感覚を揺さぶり、日常的な表象や演劇の慣習を破壊し、舞台上の力を直接作用させるような美学的原理と関係する。

したがって、残酷演劇=サディズム演劇ではない[10]。サド文学、サディスティックな表象、残酷の美学は交差することがある。しかし同じ概念ではない。この違いを無視すると、「残酷」という言葉が含まれている文学・演劇をすべてサディズムへ回収することになってしまう。


サディズム文学の代表作をどう分類すべきか?

ここまでの区別を使うと、「サディズム文学の代表作」を単純なランキングではなく、次のように分類できる。

分類作品例位置づけ
サド本人の文学『ジュスティーヌ』『ジュリエット』『閨房哲学』『ソドム百二十日』比較基準
直接的なサド受容文学『マラー/サド』『サド侯爵夫人』『事の次第』サド本人・作品との直接関係が強い
サド受容+独自変形『眼球譚』サド受容は強いが形式は独自
サディズム/支配主題の境界『O嬢の物語』『拷問庭園』支配・加虐主題が強い
批評史上の比較作品『マルドロールの歌』『泥棒日記』サドと比較されるが直系とは限らない
侵犯文学との境界『Blood and Guts in High School』侵犯・性的暴力は強いが形式は異なる
負の対照『アメリカン・サイコ』残酷表象は強いがサド的体系化は弱い

この表からも分かるように、「代表作」という言葉自体に注意が必要である。『マラー/サド』が重要なのは、『ソドム百二十日』と同じような小説だからではない。『O嬢の物語』が重要なのも、「サド文学」だからではない。『アメリカン・サイコ』に至っては、むしろ何がサド的ではないのかを確認するために重要になる。

したがって、このリストは「サディズム文学おすすめ作品ランキング」ではなく、概念の境界を理解するための比較表として読むべきである。なお、本記事で扱った後代作品は20世紀作品を中心としており、21世紀の暴力文学、BDSM文学、侵犯文学を網羅するものではない。現代作品については、単に暴力的・性的であるというだけでサドとの直接関係を推定せず、作品ごとの受容資料や形式分析が必要になる。


よくある質問

残酷な小説はすべてサディズム文学ですか?

違う。暴力や拷問が多いことは「サディスティックな主題」を示すことはあるが、サドの受容やサド的形式を意味しない。『アメリカン・サイコ』は、この違いを理解するための分かりやすい例である。

BDSM小説はサディズム文学ですか?

必ずしもそうではない。BDSM文学は支配、服従、拘束、規律などを扱いうるが、それだけでサド的形式を持つわけではない。両者が重なる作品は存在する。

『O嬢の物語』はサド文学ですか?

サド本人の文学ではないし、単純な「サドの模倣」ともいえない。性的支配・服従という主題が強く、規律や所有などサドと比較可能な形式もあるため、BDSM文学とサド的文学の境界作品として扱うのが適切である。

バタイユはサドの後継者ですか?

バタイユがサドを強く受容したことは確認できる。しかし、『眼球譚』の形式はサドの分類・数量化・制度化とはかなり違う。「後継者」というより、サドを別の文学機構へ変換した作家と見る方が正確である。

『アメリカン・サイコ』はサディズム文学ですか?

性的暴力や加虐という主題から比較することはできる。しかし、サド特有の欲望分類、閉鎖的制度、哲学的論証といった形式は弱い。本記事では「残酷だからサド的」という誤分類を防ぐための負の対照として扱っている。

サド文学は読者を興奮させるために長く反復的なのですか?

それだけでは説明できない。長大な反復は刺激を生む一方、飽和、疲労、単調、退屈、嫌悪も生みうる。これらを作者の意図と断定することはできないが、作品構造の効果としては無視できない。


まとめ:サディズム文学の核心は「残酷さ」より欲望の組織化にある

「サディズム文学」は、一つの確立した文学ジャンルではない。そこには少なくとも、サドを直接受容した文学、サディズムや支配を主題化した文学、サドに特徴的な形式を持つ文学という異なる作品群が混在している。そのため、「どれだけ残酷か」だけでサディズム文学を判断することはできない。

サド文学の形式的特徴として重要なのは、暴力よりも、反復 → 列挙 → 分類 → 数量化 → 身体の組み合わせ → 規則・階級・時間割 → 哲学的論証によって、欲望を一つの体系へ変換することである。『ソドム百二十日』では、この傾向がもっとも極端な形で現れる。欲望は自由な衝動ではなく、分類され、数えられ、時間割へ配置され、制度になる。

後代文学は、このサド的形式をそのまま受け継いだわけではない。ヴァイスや三島はサドという人物を再構成し、ベケットでは直接的な受容と形式的接続が重なり、バタイユはサドを別のイメージ体系へ変換した。『O嬢の物語』は支配と服従の境界を示し、『アメリカン・サイコ』は残酷さの量だけではサド的文学を定義できないことを示す。

したがって、「サディズムの文学とは何か」という問いに最も簡潔に答えるなら、こうなる。サディズム文学とは、残酷な文学の別名ではない。それは、サドの受容、加虐・支配という主題、そして欲望・身体・暴力を反復・分類・制度へ変換する形式が、異なる仕方で交差する文学を比較するための便宜的なカテゴリーである。


この記事の調査について

本記事では、「サディズム文学」を歴史的に確立した単一ジャンルとして扱っていない。サド本人の文学、サドを直接受容した作品、サディズムを主題化した作品、サドと批評史上比較されてきた作品、侵犯文学との境界作品を区別した。後代作品については、作者によるサド受容、作品内の明示的接続、批評史上の比較、形式的類似、サディズム主題を分離した。形式が似ていることだけを根拠に「サドの影響」とはしていない。

また、「サド的形式」という表現は辞書的・医学的定義ではなく、本記事の比較のための整理概念である。反復、列挙、分類、数量化、身体の組み合わせ、制度化、哲学演説、道徳因果の反転、読者への過剰負荷など、サド原典と先行批評で論じられてきた特徴を比較可能な形式群として整理している。

『ソドム百二十日』については、第一部のみが完成稿で、後半三部は設計・リストに近い状態で残されていることを前提とした。600の情欲という構造は作品の計画・分類形式を指すものであり、全600項目が同じ完成度の物語として書かれているという意味ではない。ベケット『事の次第』については、作者のサド読書を示す資料と、同作と『ソドム百二十日』の具体的な作品内接続を論じた研究を区別した。後代作品についても同様に、直接受容と形式的比較を混同していない。

なお、本記事は21世紀の「サディズム文学」を網羅するものではない。現代作品については、暴力・BDSM・侵犯の存在だけでサドとの関係を推定せず、作品ごとの資料確認が必要である。


注

  1. 本記事の「受容・主題・形式」という三軸は、サド本人の作品、後代の作者資料、作品内接続、批評研究を区別して比較するための整理である。「サディズム文学」は安定した歴史的ジャンル名ではなく、本記事では便宜的上位カテゴリーとして使用する。サド的文学とサディスティックな文学は同義としない。サド作品とその受容史については、BnFアルスナル図書館のサド紹介ページも参照。
  2. サド的形式については、サド原典、とくに『ジュスティーヌ』『新ジュスティーヌ』『ジュリエット』『閨房哲学』『ソドム百二十日』を基準とし、ロラン・バルト、マルセル・エナフ、リュシエンヌ・フラピエ=マジュール、モーリス・ブランショ、ジル・ドゥルーズらによる形式分析を参照した。本記事での五群化は、これらを比較記事用に整理したものである。『ソドム百二十日』の自筆原稿と未完成状態についてはBnF「L’histoire mouvementée du rouleau de Sade」、エナフについてはUniversity of Minnesota Press、フラピエ=マジュールについては『Writing the Orgy』書誌を参照。
  3. 読者への過剰負荷、単調、飽和、疲労については、ボーヴォワールによるサドの反復への言及、バルトの構造分析、フラピエ=マジュールによる反復・乱交場面の記述分析などを参照する。本記事では作者が意図的に読者を退屈させたとは断定せず、反復・過剰が生みうる構造的効果として扱った。ブランショ『ロートレアモンとサド』についてはÉditions de Minuitを参照。
  4. Peter Weiss, Die Verfolgung und Ermordung Jean Paul Marats dargestellt durch die Schauspielgruppe des Hospizes zu Charenton unter Anleitung des Herrn de Sade(通称 Marat/Sade), 1964。三島由紀夫『サド侯爵夫人』1965。両作品はサドを直接題材化するが、前者は劇中人物として、後者は不在の中心として、それぞれ異なる方法でサド像を構築する。三島作品の1965年版書誌は国立国会図書館サーチを参照。
  5. Samuel Beckett, Comment c’est, 1961。ベケットのサド読書・翻訳計画を示す作者資料とは別に、Elsa Baroghel, “Samuel Beckett, lecteur de Sade: Comment c’est et Les 120 Journées de Sodome,” 2017;“How It Was in Silling: Comment c’est and Les 120 journées de Sodome – An Intertextual Case Study,” Journal of Beckett Studies, 31.1, 2022, pp. 80–94 が『事の次第』と『ソドム百二十日』の具体的接続を論じる。2022年論文はDOIを参照。Baroghel, Sadean Intertext and Aesthetics in Samuel Beckett’s Works, Oxford University Press, 2026 はこれらの研究を集成・発展させた研究書であり、Oxford Academicで確認できる。
  6. Georges Bataille, Histoire de l’œil, 1928。バタイユによるサド受容については、1930年草稿“La valeur d’usage de D.A.F. de Sade”、1947年“Le secret de Sade”、1957年『エロティシズム』『文学と悪』などを参照する。『眼球譚』をサドの直接的模倣とはしない。
  7. Pauline Réage, Histoire d’O, 1954。性的支配、服従、所有、規律を中心に持ち、サドとの比較史も存在するが、本記事ではBDSM文学/サド的文学の境界例として扱う。1954年版の書誌はBnF/CCFr、現行版についてはÉditions Fayardを参照。
  8. Octave Mirbeau, Le Jardin des supplices, 1899;Lautréamont, Les Chants de Maldoror, 1868–1869;Jean Genet, Journal du voleur, 1949。ミルボー、ロートレアモン、ジュネについてはサドとの比較可能性または批評史上の比較を扱い、直接影響が未確認のものを「直系」とはしていない。ロートレアモンとサドの並置についてはMaurice Blanchot, Lautréamont et Sade, 1949も参照。Éditions de Minuit書誌。
  9. Bret Easton Ellis, American Psycho, 1991。本記事では性的暴力・身体解体・反復等の主題的類似と、サドに特徴的な制度化・分類・論証形式の違いを分け、「負の対照」として使用する。「サドの影響」を直接主張するものではない。出版社による作品情報はPenguin Random Houseを参照。
  10. 侵犯文学は犯罪、性、薬物、身体、禁忌、自己破壊、形式実験などを含みうる広い後代カテゴリーであり、サドから一本道で派生したジャンルとは扱わない。Kathy Acker, Blood and Guts in High School, 1984は境界例。出版社情報はGrove Atlanticを参照。アントナン・アルトーの「残酷演劇」についても、残酷という美学的・観客作用上の概念とsadismを同義としない。『演劇とその分身』の現行英訳版についてはBloomsburyを参照。

参考資料・主要出典

サド原典・書誌

  • Marquis de Sade. Justine ou les Malheurs de la vertu.
  • Marquis de Sade. La Nouvelle Justine.
  • Marquis de Sade. Histoire de Juliette.
  • Marquis de Sade. La Philosophie dans le boudoir.
  • Marquis de Sade. Les 120 Journées de Sodome. BnF:自筆原稿と来歴
  • サド作品・受容史全般:Bibliothèque nationale de France

研究・批評

  • Maurice Blanchot. Lautréamont et Sade. 1949. Éditions de Minuit
  • Roland Barthes. Sade, Fourier, Loyola. 1971.
  • Gilles Deleuze. Présentation de Sacher-Masoch: Le froid et le cruel. 1967. Éditions de Minuit
  • Lucienne Frappier-Mazur. Writing the Orgy: Power and Parody in Sade. University of Pennsylvania Press, 1996. 書誌情報
  • Marcel Hénaff. Sade: The Invention of the Libertine Body. University of Minnesota Press

後代作品・受容

  • Georges Bataille. Histoire de l’œil. 1928.
  • Pauline Réage. Histoire d’O. 1954. BnF/CCFr 1954年版書誌
  • Peter Weiss. Marat/Sade. 1964.
  • 三島由紀夫『サド侯爵夫人』1965。国立国会図書館:河出書房新社1965年版
  • Samuel Beckett. Comment c’est. 1961.
  • Elsa Baroghel. “Samuel Beckett, lecteur de Sade: Comment c’est et Les 120 Journées de Sodome.” 2017.
  • Elsa Baroghel. “How It Was in Silling: Comment c’est and Les 120 journées de Sodome – An Intertextual Case Study.” Journal of Beckett Studies 31.1, 2022, pp. 80–94. DOI
  • Elsa Baroghel. Sadean Intertext and Aesthetics in Samuel Beckett’s Works. Oxford University Press, 2026. Oxford Academic
  • Octave Mirbeau. Le Jardin des supplices. 1899.
  • Lautréamont. Les Chants de Maldoror. 1868–1869.
  • Jean Genet. Journal du voleur. 1949.
  • Kathy Acker. Blood and Guts in High School. 1984. Grove Atlantic
  • Bret Easton Ellis. American Psycho. 1991. Penguin Random House
  • Antonin Artaud. Le Théâtre et son double. 1938. Bloomsbury:現行英訳版

※本記事はATTESTED記事です。事実記述は実在し確認可能な資料に基づき、第三者の見解、筆者による推論・解釈・評価を含む場合には、それらを確認済みの事実と混同しない形で記載しています。現実の事実として提示される意図的な虚構や捏造は含みません。

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