サドとは?| 何をした人物か、代表作・思想・サディズムとの関係を解説

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「サド」と聞いて、まず「サディズム」「サディスト」という言葉を思い浮かべる人は多いだろう。実際、サディズムという言葉は彼の姓 Sade に由来するが、サド本人が「サディズム」という思想や医学概念を作ったわけではない。

マルキ・ド・サド(1740–1814)は、18世紀フランスの貴族であり、小説、戯曲、短編、政治文書などを書いた作家である。現実にも性や暴力をめぐる複数の事件で告発され、旧体制からナポレオン期まで長い拘禁生活を送った。一方、その小説に登場する殺人、拷問、性的暴力のすべてをサド本人が実際に行ったわけでもない。

死後になると、サドの名前は残酷や性的逸脱と結びつけられ、19世紀には「サディズム」という語が性科学・精神医学へ取り込まれた。さらに20世紀には、アポリネール、シュルレアリスト、ボーヴォワール、バタイユ、ブランショ、ラカン、ドゥルーズらによって、文学・哲学の重要な問題として読み直されていく。

この記事では、サドとは何者だったのか、実際に何をした人物なのか、代表作、生涯、思想、文学の特徴、「サディズム」との関係、そしてなぜ現在まで読み継がれているのかを簡単に整理する。

なお、サディズムについて深掘りしたい場合は「サディズムとは?」を参照してほしい。また、サドの思想や文学に関する詳細な解説は別記事「サドの文学とは」「サドの思想とは」にまとめた。


サドとは?

マルキ・ド・サド、本名 Donatien Alphonse François de Sade(ドナシアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド)は、1740年6月2日にパリで生まれ、1814年12月2日にシャラントンで死去したフランスの貴族・作家である[1]。

項目内容
本名Donatien Alphonse François de Sade
一般的呼称Marquis de Sade/マルキ・ド・サド/サド侯爵
生年月日1740年6月2日
没年月日1814年12月2日
出生地パリ
主な活動小説、戯曲、短編、批評、書簡、政治文書など
代表作『ジュスティーヌ』『新ジュスティーヌ』『ジュリエット』『閨房哲学』『ソドム百二十日』『アリーヌとヴァルクール』など
名前に由来する語sadisme/sadism/サディズム

サドは古いプロヴァンス貴族の家に生まれ、1750年からイエズス会のLouis-le-Grandで教育を受け、青年期には軍務にも就いた。1763年にはルネ=ペラジー・ド・モントルイユと結婚している。

現在までサドが知られている最大の理由は、その貴族としての経歴ではない。現実の性的・暴力的スキャンダル、長期拘禁、極端な性と暴力を描いた小説、宗教や道徳への挑発、そして死後に形成された「サディズム」という概念が重なり、歴史上でもかなり特殊な作家像が形成されてきた。

ここで最初に区別しておきたいのは、歴史上実在したサド本人、サド作品の登場人物、後世に作られた「怪物サド」のイメージ、そして医学・心理学上の「サディズム」は同じものではないという点である。


サドは何をした人物なのか?

サドについて語られる話には、史実と伝説が混ざりやすい。まず確かなのは、現実に複数の事件をめぐって告発され、司法処分や拘禁の対象となったことである。「すべて後世の中傷だった」という人物ではない。

1768年にはローズ・ケラーという女性をめぐるアルクイユ事件が公的なスキャンダルとなり、サドは拘禁された。事件の具体的な傷害内容については、ケラー側の申立てとサド側の説明が食い違っており、後世の伝記に現れる刺激的な細部まで一つ一つ確定した事実として扱うのは危険である[2]。

1772年にはマルセイユで売春女性らとの性的行為をめぐる事件を起こし、ソドミーと empoisonnement の嫌疑によって欠席死刑判決を受けた。ただし、ここで empoisonnement を「毒殺」と単純に置き換えると誤解が生じる。記録上、関係した女性たちは回復しており、この事件による死者は確認されていない[2]。また、この死刑判決は1778年の手続では維持されなかった。BnFの年譜は罰金への減刑とし、伝記研究では判決の破棄と戒告・罰金という整理もあるため、法的な細部には資料間の表現差が残る[2]。

その後サドは逃亡、逮捕、脱走、再逮捕を経験し、1777年からヴァンセンヌ、のちバスティーユで長期間拘禁された。この監獄生活は作家形成の重要な時期でもあり、『ソドム百二十日』、Justine系の初期稿、『アリーヌとヴァルクール』などにつながる作品が書かれている。

したがって、サドについては二つの単純化を避ける必要がある。「サドは小説に書いたことを全部実際にやった怪物だった」という理解も、「実際には何もしておらず、後世に悪人へ仕立てられただけだった」という理解も正確ではない。 実在の事件と暴力をめぐる告発は存在する一方、『ソドム百二十日』や『ジュリエット』に描かれる大量殺人や極端な拷問を、そのまま作者自身の伝記へ移すこともできない。


サドと「サディズム」はどんな関係がある?

「サディズム」という言葉はサドの名前に由来する。だが、サド本人が「サディズム」という言葉を作ったわけではない。

サドは1814年に死去している。フランス語の sadisme はその死後に姓 Sade から形成された言葉で、1834年刊のPierre-Claude-Victoire Boiste『Dictionnaire universel de la langue française』第8版には、重要な早期辞書収録例が確認されている[3]。Boiste本人は1824年に死去しており、この第8版はCharles Nodierによる改訂版である。現時点の資料から「1834年が絶対的な初出」とまでは断定できないが、少なくともクラフト=エビングより半世紀以上前にフランス語として存在していたことは確認できる。

この時点の sadisme は現在の医学的な診断名ではなく、サドの名に結びついた極端な放蕩、残酷性、反社会性などを表す道徳的・社会的なカテゴリーだった。

19世紀後半になると、この言葉は性科学へ取り込まれる。リヒャルト・フォン・クラフト=エビングは1886年に『Psychopathia Sexualis』初版を刊行し、1890年の『Neue Forschungen auf dem Gebiet der Psychopathia sexualis』では、Sadeに由来する Sadismus と、作家レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホに由来する Masochismus を性科学上の対概念として明確に体系化した[4]。

つまり、大まかな流れは、サドという人物 → サドの悪名 → sadisme という文化的・道徳的な言葉 → 性科学・精神医学上の sadism である。その後さらにフロイトの精神分析、現代精神医学の Sexual Sadism Disorder、人格心理学の everyday sadism、日常語の「サディスト」「ドS」、合意的BDSMにおける sadist などへ意味が枝分かれした。

したがって、サド本人=医学的なサディスト=BDSMのS=日常語のドSという等式は成立しない。


サドの代表作

サドは露骨な性描写で知られているが、著作はそれだけではない。小説、哲学対話、書簡体小説、短編、戯曲、政治文書など、かなり広い文章を書いた。

作品概要
『ジュスティーヌ』美徳を守ろうとする女性ジュスティーヌが、善良であろうとするほど不幸に遭遇していく物語
『新ジュスティーヌ』『ジュスティーヌ』を大幅に増補し、性・暴力・哲学演説をさらに極端化した作品
『ジュリエット』ジュスティーヌとは対照的に、悪徳を実践するジュリエットが成功していく長大な小説
『閨房哲学』性的教育の場面と、宗教・道徳・自然・政治をめぐる哲学的対話を組み合わせた作品
『ソドム百二十日』閉鎖された城で欲望を分類・段階化・制度化していく未完成の大作
『アリーヌとヴァルクール』書簡体や旅行譚を通じて、政治・社会制度・法・経済などを比較する大規模な小説
『司祭と瀕死の男との対話』宗教と無神論をめぐる短い対話篇。1782年に書かれ、生前には刊行されなかった

『ジュスティーヌ』と『ジュリエット』

サドの文学を理解するうえで重要なのが、ジュスティーヌとジュリエットの対照である。ジュスティーヌは美徳を守ろうとするが、その美徳によって繰り返し不幸に陥る。一方、ジュリエットは悪徳を受け入れ、権力や快楽を追求しながら成功していく。

ここでは一般的な道徳小説の「善い人間は報われ、悪い人間は罰せられる」という因果関係が反転する。サドは物語の構成そのものによって、世界が本当に道徳的な秩序を持っているのかという問題を突きつける。

『閨房哲学』

『閨房哲学』は1795年に匿名で刊行された。若い女性への性的教育という設定を使いながら、登場人物たちが宗教、道徳、自然、犯罪、政治などについて長大な議論を行う。

サド文学では性行為と哲学演説が別々に存在するのではない。行為と論証が交互に配置され、登場人物が自らの行為を理論によって正当化していく。この構造は、サドの文学を単なる性的・残酷描写から区別する重要な特徴の一つである。

『ソドム百二十日』

『ソドム百二十日』は1785年、サドがバスティーユに収監されていた時期に、極小文字で細長い巻物へ清書された作品である[5]。ただし、これは完成した長編小説ではない。第一部は比較的完成した物語になっているが、後半三部の大部分は出来事を簡潔に記録した計画・リストの状態に留まる。

それでも、その設計図的な部分まで含めてサド文学の特徴が強く現れている。欲望は分類され、数量化され、段階化され、日程・規則・階級・役割の中へ組み込まれていく。単に「残酷なことが大量に起きる小説」ではなく、欲望を一つの体系へ変換していく小説として読むことができる。


サドの生涯:事件・投獄・フランス革命

サドの生涯は、旧体制、フランス革命、統領政府・ナポレオン期という大きく異なる政治体制をまたいでいる。

年主な出来事
1740年6月2日、パリに生まれる
1750年Louis-le-Grandへ入学
1763年ルネ=ペラジーと結婚。同年、Testard事件をめぐり短期拘禁
1768年アルクイユ事件
1772年マルセイユ事件。欠席死刑判決を受け逃亡
1777年再逮捕され、ヴァンセンヌへ
1778年1772年の死刑判決はそのまま維持されず、法的処理が変更される
1784年バスティーユへ移送
1785年『ソドム百二十日』を巻物へ清書
1789年7月4日シャラントンへ移送
1789年7月14日バスティーユ襲撃。この時点でサドはすでに同監獄にはいなかった
1790年lettres de cachet 廃止後に釈放
1791年『ジュスティーヌ』匿名刊行
1792–93年Section des Piquesで政治活動
1793–94年革命政府下で再び逮捕・収監
1795年『アリーヌとヴァルクール』『閨房哲学』刊行
1800年『恋の罪』などを刊行
1801年警察に逮捕
1801–14年Sainte-Pélagie、Bicêtreなどを経て、晩年をシャラントンで過ごす
1814年12月2日死去

サドはしばしば「バスティーユの囚人」として知られているが、1789年7月14日のバスティーユ襲撃そのものには参加していない。7月4日にすでにシャラントンへ移送されていたからである。襲撃直前に獄中から外へ向かって騒ぎを起こした記録はあるが、「サドがバスティーユ襲撃を起こした」とする因果関係は確認されていない。

革命後に釈放されたサドは、Section des Piquesで政治活動にも参加した。そのため「革命とは無関係な人物」でもないが、一貫した王党派、革命家、急進共和主義者など一つの政治的ラベルへ固定するのも難しい。

1801年の逮捕後について、伝記研究者Maurice Leverは、刑事裁判による有罪判決を経ないまま拘禁が死去まで続いたと整理している[2]。本記事ではこの点をLeverの伝記研究に基づく記述として扱う。晩年はシャラントンで過ごし、1805年には施設内で演劇活動が行われていたこともBnFの年譜から確認できる。


サドの思想とは?

サドはしばしば「サド哲学」という一枚岩の思想を持った哲学者のように語られる。しかし、彼の思想を考える場合には、本人の書簡や政治文書、作品全体の構成、作中人物の演説、後世の研究者による哲学的再構成を区別する必要がある。

サドの小説には、宗教、自然、快楽、犯罪、自由、権力、法、道徳などについて長大な演説をする登場人物が何人も出てくる。しかし、作中人物が述べたことを、そのままサド本人の意見とすることはできない。『閨房哲学』のドルマンセや『ジュリエット』のリベルタンたちの主張を、そのまま作者の信条として扱うのは危険である。

一方、本人資料から比較的強く確認できるのが無神論である。1783年11月の妻宛書簡ではドルバック『自然の体系』への強い支持が示されており、サドがラ・メトリやドルバックなど18世紀唯物論の影響下にあったことも研究上指摘されている[6]。ただし、この書簡の文言を直接引用する場合には原版面を改めて確認する必要がある。

作品全体では、神によらない「自然」とは何か、自然に善悪は存在するのか、法や道徳は誰のためにあるのか、快楽に限界はあるのか、権力を持つ者が道徳を語るとはどういうことか、といった問題が繰り返し現れる。ただし「自然」の意味ひとつを取っても作品や話者によって異なり、サドをそのまま「自由の哲学者」「悪の哲学者」「革命思想家」など一語で閉じることは難しい。

本記事では、サド文学の思想的特徴を、極端な主張を複数の架空人物に語らせ、その論理と帰結を作品の中で展開することにあると捉える。これはサド本人の信条を一つに確定するというより、作品構造についての解釈である。


サドの文学は何が特徴なのか?

サド文学を「残酷描写」で終わらせると、重要な部分を取り落とす。性、暴力、拷問、殺人、涜聖などは確かに大きな特徴だが、Barthes、Marcel Hénaff、Lucienne Frappier-Mazurらの研究では、それらが反復・分類・数量化・組合せ・制度・哲学的論証によってどのように組織されているかも重要な論点となってきた。

特に『ソドム百二十日』では、欲望や行為が繰り返され、種類別に分類され、人数・日数・順序などによって数量化される。閉鎖された空間では、権力者、犠牲者、語り手などに役割が与えられ、規則、階級、時間割、命令、罰が設定される。個人的な欲望が、物語内部の一種の制度へ変換されるのである。

さらにサドの登場人物たちは性行為や犯罪を行うだけでなく、「なぜ宗教は間違っているのか」「自然とは何か」「なぜ犯罪を禁じるのか」「道徳は誰が作ったのか」といった問題を延々と論じる。行為と哲学的論証が交互に配置されることで、サド作品はポルノグラフィー、小説、哲学対話、政治的言説の境界を横断する。

したがって、サド文学の特徴の一つは、欲望を反復し、分類し、数量化し、制度化し、それを言葉によって正当化する構造にあると整理できる。


なぜサドは20世紀に再評価されたのか?

サドは1814年に死去したあと、すぐに「フランス文学の巨匠」として公認されたわけではない。19世紀には作品の一部が地下的・私的に読まれる一方、一般社会では作品本文以上に「Sade」という悪名が流通した。したがって「完全に忘れられ、20世紀に突然発見された」という説明も正確ではない。

20世紀の再評価は、本文の刊行と校訂、前衛芸術による受容、出版をめぐる裁判、思想家による読解、文学制度への編入など、複数の流れが重なって進んだ。

1904年:『ソドム百二十日』が初めて刊行される

サド自身が失われたと思っていた『ソドム百二十日』の巻物は生き残り、1904年にイワン・ブロッホがEugen Dühren名義で初めて刊行した[7]。この初版には誤読も多く、1931年から1935年にかけてモーリス・エーヌが3巻本として本文校訂を進めていく。

1909年:アポリネールが文学・思想の側へ動かす

ギヨーム・アポリネールは1909年に『L’Œuvre du Marquis de Sade』を編集した。この選集は作品抜粋だけでなく、序文、書誌、注、書簡などを伴い、サドを著作と思想を持つ作家として再編集する役割を果たした。

ただし、アポリネール一人が「忘れられていたサドを初めて発見した」わけではない。19世紀にもサドを読んだ作家・知識人や先行研究は存在しており、アポリネールは19世紀末から進んでいた再調査を20世紀の文学的・前衛的なサド像へ強く媒介した人物の一人と考える方が正確である。

シュルレアリストが先駆者として読み直す

1920年代になると、アンドレ・ブルトンやポール・エリュアールらシュルレアリストがサドを、自分たちの欲望、反道徳、反宗教、自由などの系譜へ組み込んだ。

これは歴史上のサド本人が「シュルレアリストだった」という意味ではない。20世紀の前衛運動が、自らの先駆者としてサドを遡及的に位置づけたのである。

哲学・文学理論の対象になる

戦後になると、サドはさらに思想上の重要な対象となった。ピエール・クロソウスキーは無神論、規範、欲動などの問題からサドを読んだ。モーリス・ブランショは1949年の『ロートレアモンとサド』で理性、無感動、否定などを論じ、後期の論考では書くことや反復の問題へ重点を移している。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは自由と他者の関係から、ジョルジュ・バタイユは禁忌、侵犯、死、主権などの問題からサドを扱った。その後もラカン、ドゥルーズ、ロラン・バルトらによって、サド作品は哲学・精神分析・文学理論の対象となっている。

ここではサドは単に「異常な性癖を描いた作家」ではなく、自由、身体、法、欲望、言語、道徳を極端な条件から考えるためのテクストとして読まれている。

禁書的作家から文学的正典・文化遺産へ

1947年以降、ジャン=ジャック・ポヴェールは自らの名でサド作品の刊行を進め、それをめぐって1956年から1958年にフランスで裁判が行われた。裁判では有罪判断そのものは維持されたが、サド作品の文学的価値も公的な争点となった[11]。

1990年から1998年にかけては、ミシェル・ドロン校訂によるサド『Œuvres』全3巻が、フランスを代表する文学叢書Bibliothèque de la Pléiadeに収録された[8]。さらに『ソドム百二十日』の自筆巻物は2017年にフランスの trésor national に指定され、2021年7月にはフランス国立図書館(BnF)が取得した[9]。

かつて地下出版、押収、猥褻をめぐる争いと結びついたテクストが、現在では国立図書館が保存・研究する文化資料となっている。ただし、これを「禁書から名作へ」という一方向の進歩史として単純化するべきではない。本文校訂、前衛芸術、出版、裁判、哲学、大学研究、図書館制度という複数の動きが重なり、現在のサド像が形成された。

日本では戦後、澁澤龍彦がサド受容の中心的な媒介者の一人となった。1959年刊の澁澤訳『悪徳の栄え』は猥褻性をめぐる刑事裁判の対象となり、いわゆる「サド裁判」は1969年10月15日の最高裁大法廷判決で上告棄却となった[10]。ただし、澁澤を日本における最初のサド紹介者と確定することはできない。本記事では、戦前を含む日本のサド受容史そのものは検討していない。


初めてサドを読むなら?

以下は書誌上の序列ではなく、本記事の編集上の読書案内である。何を知りたいかによって入口を変えた方が分かりやすい。

知りたいもの入口
サドの哲学的な議論を比較的まとまった形で読みたい『閨房哲学』
美徳と悪徳の反転を知りたい『ジュスティーヌ』系
サド文学の分類・数量化・制度化を体感したい『ソドム百二十日』
無神論を短い対話篇で読みたい『司祭と瀕死の男との対話』
長大なサド世界へ本格的に入る『新ジュスティーヌ』『ジュリエット』

最初から『ソドム百二十日』へ入ることもできるが、この作品は未完成で、後半は通常の長編小説というより設計書やリストに近い。思想と文学の両方を比較的見通しやすい入口として、本記事では『閨房哲学』を一つの候補とする。一方、サド文学に特徴的な反復、分類、数量化を強く体感したいなら、『ソドム百二十日』は重要な作品である。


よくある質問

サドは本当に「サディスト」だったのですか?

現代の医学的カテゴリーを使って、歴史上のサド本人を診断することはできない。「サディズム」という言葉自体がサドの死後に形成され、19世紀後半に性科学上の概念として体系化された。サドに現実の暴力事件や性的スキャンダルがあったことと、後世の医学概念で本人を診断することは別問題である。

サドは人を殺したのですか?

今回確認した主要資料では、サドを殺人犯と確定する根拠は確認できない。特に1772年のマルセイユ事件は empoisonnement の嫌疑を含むが、関係した女性は回復しており、記録上この事件による死者はいない。作品中には大量の殺人が登場するが、それを作者自身の行為と混同してはならない。

なぜサドは投獄されたのですか?

理由は一つではない。1768年アルクイユ事件や1772年マルセイユ事件など現実の事件をめぐる拘禁があり、旧体制下では司法だけでなく行政的な拘禁も関係した。革命期には政治状況の中で再び逮捕され、1801年以降については、Leverの伝記研究では刑事裁判による有罪判決を経ないまま拘禁が続いたと整理されている[2]。すべてを「性犯罪で服役した」と一括するのは不正確である。

サドは精神病だったのですか?

シャラントンに収容されていたことだけから、現代医学上の精神疾患を持っていたと診断することはできない。シャラントンへの収容という歴史的事実と、現代の診断カテゴリーは分けて考える必要がある。

サドは革命家だったのですか?

フランス革命期にSection des Piquesで政治活動をしたことは確認されている。しかし、その政治的位置は単純ではなく、サドを一貫した革命思想家、王党派、急進派など一つの政治ラベルへ固定することは難しい。

サドは無神論者だったのですか?

比較的強く「無神論者だった」と言える。1783年の本人書簡などがその根拠となる。ただし、作品中のすべての反宗教的演説が、そのまま本人の信条を表しているわけではない。

『ソドム百二十日』は完成した小説ですか?

完成していない。第一部は比較的完成した物語だが、後半三部の大部分は計画やリストの状態にある。その設計図的な構造自体が、現在では作品の形式を考えるうえでも重要視されている。

「サディズム」という言葉をサド本人が作ったのですか?

作っていない。サドは1814年に死去しており、フランス語 sadisme はその死後に姓から形成された。1834年のBoiste辞典には重要な早期収録例が確認され、その後19世紀後半に性科学の技術語へ取り込まれていった。


まとめ:犯罪者・ポルノ作家だけでは捉えられないサド

サドは、実在の性・暴力事件をめぐって告発され、長期間拘禁された18世紀フランスの貴族・作家だった。その点を消して「実は何もしていなかった無実の思想家」とすることはできない。しかし反対に、小説の中で行われる拷問や殺人をすべて作者自身の実生活へ重ね、「サディズムの権化」として片づけることもできない。

サドを理解するには、現実に事件を起こし複数の政治体制下で拘禁された歴史上の人物、性・暴力・宗教・道徳・法・自然を極端な形式で扱った作家、死後その姓から「サディズム」という概念が派生した人物、そして20世紀以降に自由・欲望・身体・権力・言語を考えるための古典として再構成された作家という複数の層を分ける必要がある。

サドの文学が現在まで読まれている理由も、単に残酷だからではない。欲望を数え、分類し、反復し、制度へ変換し、それを哲学的な言葉によって正当化する。その異常なまでの体系性によって、読者が当然だと思っている「善悪」「自然」「自由」「法」「身体」の境界を極端な場所から揺さぶる。その意味でサドは、「サディズムという言葉の語源になった人」だけでは終わらない作家である。


この記事の調査について

本記事では、サド本人、作品中の登場人物、後世に形成されたサド像、死後に成立した「サディズム」という概念を区別して整理した。人物・生涯・作品については、フランス国立図書館(BnF)の書誌・年譜・写本資料、Michel Delon校訂のBibliothèque de la Pléiade版、John Phillips、Maurice Leverらの伝記・研究を主要な確認資料とした。

事件については、後世の伝記で増幅された刺激的な細部をそのまま事実化せず、資料間で確認できる大枠を中心に記載した。作品中の人物が語る思想についても、実在のサド本人の意見へ自動的に置き換えていない。サドの死後の受容については、Apollinaire、Maurice Heine、Jean-Jacques Pauvert、20世紀の主要思想家、Pléiade刊行、BnFによる『ソドム百二十日』写本取得などを通じて確認した。


注

  1. Bibliothèque nationale de France, authority record, “Sade, Donatien Alphonse François de (1740-1814)”;D.-A.-F. de Sade, Œuvres, éd. Michel Delon, Bibliothèque de la Pléiade, 3 vols., 1990–1998.
  2. Maurice Lever, Donatien Alphonse François, marquis de Sade, Fayard;John Phillips, The Marquis de Sade: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2005. 本記事の1801年以降の拘禁についてはLeverの伝記研究に基づく。
  3. Pierre-Claude-Victoire Boiste, Dictionnaire universel de la langue française, 8e éd. revue par Charles Nodier, 1834;Trésor de la langue française informatisé(TLFi), s.v. sadisme.
  4. Richard von Krafft-Ebing, Psychopathia Sexualis, Stuttgart, Enke, 1886;Neue Forschungen auf dem Gebiet der Psychopathia sexualis, Stuttgart, Enke, 1890.
  5. Bibliothèque nationale de France, “Le rouleau du Marquis de Sade : restauration d’un monument littéraire”;Bibliothèque de l’Arsenal, Ms-15877.
  6. Sade, 1783年11月妻宛書簡。参照先:Œuvres complètes, Cercle du livre précieux, 1967, t. XII, p. 416;John Phillips, The Marquis de Sade: A Very Short Introduction. ※直接引用を行う場合は書簡本文の版面再確認を要する。
  7. Iwan Bloch(Eugen Dühren名義)による Les 120 Journées de Sodome 初刊、1904。巻物と初刊の経緯についてはBnFの写本解説を参照。Maurice Heine éd., Les 120 Journées de Sodome, 3 vols., 1931–1935.
  8. D.-A.-F. de Sade, Œuvres, éd. Michel Delon, Bibliothèque de la Pléiade, 3 vols., 1990–1998.
  9. Bibliothèque nationale de France, 『Les Cent Vingt Journées de Sodome』写本の取得・修復・デジタル化に関する解説;Bibliothèque de l’Arsenal, Ms-15877.
  10. 最高裁判所大法廷、昭和44年10月15日、昭和39(あ)第305号「猥褻文書販売、同所持」、刑集23巻10号1239頁。
  11. IMEC, “Jean-Jacques Pauvert ou le refus de la censure”;Jean-Jacques Pauvert, L’Affaire Sade, 1957;Jean-Marc Levent, “Un acte de censure « scélérat » : Sade en procès (1954-1958)”, Lignes, 2000/3.

参考資料・主要出典

人物・伝記・書誌

文学・形式研究

語源・性科学

20世紀の受容・思想

出版・裁判・制度的受容

※本記事はATTESTED記事です。事実記述は実在し確認可能な資料に基づき、第三者の見解、筆者による推論・解釈・評価を含む場合には、それらを確認済みの事実と混同しない形で記載しています。現実の事実として提示される意図的な虚構や捏造は含みません。

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