『ひきこもりの手記』とは、ひきこもりを名乗る作中筆者〈私〉が、自分の生涯、精神病院での経験、独自の思想、そして「二件の殺人」について、長年にわたって残してきたという記録を編纂して語る長編作品である。
2021年には「令和の奇書」と紹介され[1]、同年には奇書・珍書を取りあげるインフルエンサーに「Kindleに繰り返し登録されては削除されてる謎の本」として取り上げられている[2]。ネット上には「酒鬼薔薇聖斗が書いたのではないか」という噂が流れ、その一方で、文章やレトリックを高く評価する読者もいる。2024年には、『フィネガンズ・ウェイク』『重力の虹』『裸のランチ』『家畜人ヤプー』『ドグラ・マグラ』『絶望の世界』などを並べた「読むと頭がおかしくなる文学ランキング」で言及され、中には「究極の電波系思想小説」「アングラ感+文学」と評する投稿も見受けられる[3]。しかし本記事では、そうした噂をひとまず脇に置いたうえで、作品本文と公開資料をもとに、その中身を見ていく。
目次
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『ひきこもりの手記』とは?

『ひきこもりの手記』電子書籍版表紙。
『ひきこもりの手記』はMMM名義で刊行された長編作品である。作品情報や関連作品は、MMMの公式サイトでも公開されている。Amazonでは電子版[0]~[3]が全4冊のシリーズとして表示されている[4]。2022年には、電子版の序文・第1部・第2部をまとめた602頁のペーパーバック版も刊行された[5]。
作品の中心にいる〈私〉は、自分を「人殺し」「病名を与えられた人間」「ひきこもり」と語り、自らの人生、精神、思想、そして殺人について記録していく。しかし、この説明だけでは本作の奇妙さは伝わらない。〈私〉は殺人について語りながら、手記の中心は殺人ではないとも述べる。自分の人生を記録しようとしながら、自分が残した記録を疑う。精神医学によって分類される側に置かれながら、逆に精神医学の定義や医師の論理を問い返す。『ひきこもりの手記』は、一人のひきこもりの人生を描いた作品であると同時に、その人物が自分、社会、正義、因果関係、言葉、そして最後には世界そのものを疑っていく思想の記録でもある。
どんな作品?:ネタバレなしで内容を紹介
〈私〉は幼少期から、文章、絵、物語、ノート、紙片など大量の記録を残してきた。それらを後年になって選び、並べ直し、改稿し、自分の生涯と思想を一つの手記へ編纂していく。そこに書かれているのは、母との関係、学校、不登校、工場での仕事、ひきこもり生活、精神病院、読書、殺人、夢、そして自由意志、正義、社会、精神医学、言葉、認識、性、世界についての思索である。
一般的な小説のように、一本の物語だけを追って読める本ではない。人生の回想が続いたと思えば突然長い理論が始まり、思想文の途中に夢や断片が入り、後になって以前の理論そのものが修正される。作品自身も、自らを「100人中1人」のためのものとし、物語は破綻し、論理は矛盾し、問題は解決せず、まとまりもなく読みにくい作品だと説明している。つまり、読みやすく整えられた小説であることを最初から放棄している。
『ひきこもりの手記』5つの特徴
難解で、しかも長大
ペーパーバック版は602頁ある[5]。しかし、本作の読みづらさは単純な長さだけによるものではない。回想の途中に長大な思想が入り、思想の途中に夢や記録が入り、その理論が後から変更される。第2部では300から1へ逆行する断片が続き、まとまった章だけでなく、《省略》そのものまで作品構造の一部として置かれている。しかも作品自身が、物語の破綻、論理の矛盾、問題の未解決、内容の混乱、逸脱、読みにくさをあらかじめ宣言している。難解な思想書、信頼しきれない人生記録、実験小説を同時に読むような本である。
文体が変わり続ける
『ひきこもりの手記』には、一冊を通して安定した一つの文体がない。回想的な文章、理論的な文章、口語、短い断章、夢、詩のような文章が混在する。これは単なる統一感の欠如として処理されているわけではない。作中筆者は、人間の精神や人生そのものが首尾一貫していない以上、それを書く言葉も正しい文法や一貫した文体から逸脱せざるをえないと考える。文章の崩れそのものが、描こうとしている精神の崩れと対応している。また第2部では、刊行のたびに文章を修正してきたことまで本文に記録し、「新しい版をかさねるたびに書物は変化して」いると語る。完成した後に固定された本というより、書かれ、読み返され、修正されながら変形していく書物として提示されている。
読者を挑発する
『ひきこもりの手記』は、読者に親切な本ではない。第0章の題名からして「凡庸な人間には最後までよめないまえがき」であり、作品冒頭では「100人中1人」にしか理解されず、好かれない作品だと自称する。第2部では、想像以上に読者が存在したことに触れながらも、読者へ感謝するつもりはないと書き、自分と読者を「決闘の相手であり戦友」と呼ぶ。そして「読者諸君、剣をかまえたまえ」と挑発する。普通の本が「どうすれば読者へ伝わるか」を考えるものだとすれば、本作はしばしば逆方向へ進む。理解できるなら読んでみろ、と本の側から読者へ決闘を申し込んでくる。
一般的な商業文芸では扱いづらいほど攻撃的
本作は冒頭から、反道徳的・反倫理的・反常識的思想、差別的・侮辱的・残酷な表現などが含まれることを自ら告げている。実際に攻撃対象となるものも非常に多い。精神医学、社会、正義、道徳、政治、差別、反差別、強者、弱者、知識人、読者など、何か一つの立場を安全地帯として残す傾向が弱い。重要なのは、反道徳的な思想を悪役の思想として安全に提示するだけではないことである。通常なら作者や語り手が距離を置くような思想も、作品内部で実際に展開される。そして、その思想を正しいと受け入れるよう読者に求めるわけでもない。読者が当然のように依存している倫理や常識そのものを、一度疑いの対象へ引きずり出す。その意味で、本作の攻撃性は単に「過激な題材を扱っている」というレベルには収まらない。
現実と虚構が混ざるのではなく、現実そのものが疑われる
『ひきこもりの手記』を「現実と虚構の境界が曖昧な作品」と説明することはできる。しかし、それだけでは十分ではない。現実と虚構が入り混じる小説は珍しくない。夢と現実が分からなくなったり、信頼できない語り手が嘘をついたり、作中作と現実が混線したりする作品はいくらでもある。本作で特徴的なのは、虚構作品の内部が現実らしくなるだけではなく、作品の側から読者が生きている「現実」の方が虚構として疑われていくことである。この運動を支えているのが、世界舞台理論、世界物語理論、世界夢幻理論という三つの理論である。社会的役割が疑われ、因果関係や人生の物語が疑われ、最後には意味、論理、認識、法則、世界そのものへと懐疑が拡大していく。この三理論については、後で詳しく見る。
『ひきこもりの手記』のあらすじ【ネタバレあり】
序文で〈私〉は、人殺し、病名を与えられた人間、何十年も家から出られないひきこもりと話したことがあるか、と読者へ問いかけ、そのすべてが自分であると語る。殺人の問題はすぐに自由意志の問題へ接続される。人間の精神も自然法則に従う現象にすぎないのなら、人間は本当に自分の意志で行動していると言えるのか。〈私〉は殺人を語りながら、殺人そのものより、自分が長年考えてきたことを伝えることの方が重要なのだとする。
第1部:人生、精神病院、二件の殺人
第1部では、〈私〉の幼少期からの人生が記録と回想によって再構成される。母との関係、手鏡をめぐる出来事、学校生活、不登校、パン工場での仕事、発作、ひきこもり生活などが描かれ、その過程で〈私〉は「世界舞台理論」「世界物語理論」といった独自の考えを作り始める。やがて母に連れられて精神病院へ行き、精神科医との問答が始まる。しかし〈私〉は診断を一方的に受け入れるのではなく、「病気とは何か」「正常とは何か」「事実とは何か」と、診断する側の論理を疑っていく。
その後、母への攻撃、絞首、庭への埋葬として描かれる場面が置かれる。ところが後に、母を埋めた場所として庭を再び掘ると、〈私〉が見知らぬ子供と認識する遺体が現れる。〈私〉自身は母殺しを一度目、子供殺しを二度目の殺人として語る。しかし、第1章に登場する解体された子供、庭から現れる子供の遺体、後年語られる二度目の殺人が同一事件なのかは確定できない。第1部の終わりでは、さらに「第三の殺人」が予告される。
第2部:300から1へ向かう断片と「第三の殺人」
第2部は、300から1へ逆行する断片群で構成される。正義、規則、精神医学、言葉、自由意志、因果関係、性、夢、世界などについて、〈私〉は次々と理論を作り、修正し、反転させていく。病棟で出会う人々についての記述も入り、丸眼鏡の少女が他の少女たちと関わり、のちに孤立し、屋上から飛び降りる場面も描かれる。
終盤では「第三の殺人」が再び前景化し、準備や予行練習を済ませたという記述まで現れる。ただし初期の対象は明かされず、終盤では自分自身を殺す必要が語られるものの、対象が途中で変わったのか、実際に第三の殺人が行われたのかは確定しない。最後に描かれるのは殺害や自殺の場面ではなく、〈私〉が夜の町を歩き、川へ向かう姿である。最後まで明快な「真相」は渡されない。
主な登場人物
作中筆者〈私〉は、自分をひきこもり、人殺し、病名を与えられた人間として語る本作の中心人物である。ただし、〈私〉の自己申告と、作品世界で独立して確定した事実は同じではない。また、作中筆者〈私〉と現実世界の著者MMMをそのまま同一人物として扱うこともできない。
母は幼少期から第1部の中心にいる人物で、手鏡、家庭内の暴力、精神病院への同行、後の殺害場面などに関わる。大家は母子の生活、家賃、食事、行政手続、金銭などに関わり、〈私〉から監視や支配を疑われる人物でもある。第1部には男性の精神科医が登場し、第2部には〈私〉が「先生」と呼ぶ精神科医が現れるが、二人が同一人物かは確定していない。
丸眼鏡の少女は第2部の病棟で登場し、本を読み、手帳へ言葉を書き抜く人物として描かれる。その飛び降りと、その後〈私〉が「自殺」と呼ぶ出来事は、後半の正義や社会への批判とも接続していく。
何が書かれているのか:孤独・正義・狂気・自由意志
『ひきこもりの手記』は、物語であると同時に巨大な思想の記録でもある。繰り返されるのは、他人の精神を本当に理解できるのかという孤独の問題、人間に自由意志はあるのかという問題、正常と異常を誰が決めるのかという問題、そして正義とは何なのかという問題である。特徴的なのは、どの問題についても最終的な答えが固定されないことである。
象徴的なのが、第2部に現れる「正義七原則」と「正義裏七原則」だ。〈私〉はいったん、公平性、自守性、一貫性、反証可能性、検証可能性などを、他者へ規範を課す際の条件として組み立てる。しかし、その理論では現実に力を持つ「正義」を説明できないとして、自分自身の理論を批判する。そして今度は、非対称性、一方性、柔軟性、大衆性、反証不可能性、検証不可能性、強制力を、現実に作動している正義の性質として整理する。理想的な正義を作ろうとした理論が、現実の正義を観察する理論へ反転するのである。
『ひきこもりの手記』では、思想は結論ではなく運動である。理論を作り、それを疑い、修正し、ときには自分自身で壊す。思想することそのものが物語になっている。
3つの世界理論:社会は舞台、人生は物語、世界は夢
本作の思想的変遷をもっとも分かりやすく示しているのが、「世界舞台理論」「世界物語理論」「世界夢幻理論」である。本記事では、この三つを独立した学説というより、〈私〉が「現実」と信じられているものを段階的に疑っていく過程として読む。
世界舞台理論:社会は芝居ではないか
世界舞台理論では、「世界のあらゆる出来事は舞台のお芝居のような偽物にすぎない」とされる。父、母、子供、教師、学生、会社員といった社会的属性は、舞台上の役柄や衣装のようなものとして捉え直され、人間はそれぞれ与えられた役を演じている。ここで重要なのは、この理論が作中人物だけを対象にしていないことである。〈私〉は読者へ向かって、大学生、大学教授、会社経営者、父、母といった属性も、与えられた仮面、衣装、役柄にすぎないと語る。そして、自分の手記の世界ではなく、読者が生きている世界の方こそ舞台であり、物語であり、虚構なのだとする。
最初に疑われるのは、社会的現実である。誰が正常で誰が異常なのか、誰が教師で誰が生徒なのか、誰が医者で誰が患者なのか。それらは絶対的な本質ではなく、社会という舞台のなかで成立している役なのではないか。日常生活と社会秩序そのものが、巨大な芝居として相対化される。
世界物語理論:因果関係も人生も物語ではないか
世界物語理論では、疑いの対象がさらに広がる。問題になるのは、出来事同士を結びつける「因果関係」である。〈私〉は因果関係を星座になぞらえる。夜空に星は存在する。しかし、どの星とどの星を結んで星座を作るかは人間が決めている。出来事についても同じではないか。「いじめが原因でひきこもりになった」と説明することはできる。しかし別の出来事を選べば、まったく別の因果関係も作れる。出来事そのものは存在していても、どの出来事とどの出来事を線で結ぶかは恣意的である。そして、その線によって浮かび上がる人生や世界のまとまりまで、人間が作った物語なのではないか。
この疑いは『ひきこもりの手記』自身にも向かう。本作もまた、膨大な記録から一部の出来事を選び、並べ、編集して作られた「私の人生」の物語だからである。世界舞台理論が社会的役割を虚構として疑ったのだとすれば、世界物語理論では、人間が現実を理解するために使っている因果関係や物語そのものが疑われる。
世界夢幻理論:最後には世界そのものが疑われる
終盤に現れる世界夢幻理論では、懐疑はさらに拡大する。冒頭から宣言されるのは、「世界とは夢である」という考えである。ここでいう夢は、単なる夢オチではない。夢は体験されているという意味では存在する。しかし、消えていくという意味では存在しないとも言える。現実とも虚構とも言える。その中間的な概念として「夢」が使われる。そして〈私〉は、人々が素朴に現実、事実、真実と呼んでいるものそのものを、はかない夢として疑う。
さらに懐疑は、意味や論理だけでなく、原因、根拠、法則へ進む。世界を支配しているものを「物理法則」ではなく「認識法則」と捉え、人間とは異なる認識を持つ生命なら、人間とは異なる法則を世界から見いだすのではないか、と論じる。つまり、「世界がどうなっているか」という問題と、「私たちには世界がどう見えているか」という問題が分離できなくなっていく。社会的役割から始まった疑いは、社会、人生、因果関係、意味、論理、時空、法則、認識される世界そのものへと広がっていく。そして世界夢幻理論自身も、「破綻を前提とした理論」「水面のうえにかいた論理の詩」とされる。最後の理論すら、絶対的な真理として固定されない。
読者と作品の関係が反転する
三つの世界理論をこの流れとして読むと、『ひきこもりの手記』のもっとも奇妙な構造が見えてくる。通常、読者は「現実」にいて、小説という「虚構」を読む。読者が作品世界を観察する。しかし『ひきこもりの手記』では、その関係が反転する。作中人物だけが社会という舞台で役を演じているのではなく、読者もまた役を演じているのではないか。作中人物の人生だけが物語なのではなく、読者が自分の人生や社会や歴史について信じている因果関係も、物語なのではないか。作中世界だけが夢なのではなく、読者がこの本を閉じて戻っていく世界そのものも、本当に絶対的な現実なのか。
本作では、ひきこもりである〈私〉を読者が観察しているつもりでも、〈私〉の側から読者と社会が観察される。虚構作品を現実の読者が分析するという通常の構図が、逆方向へ折り返される。本作は、単に現実と虚構を混ぜる作品ではない。虚構作品の側から、読者が現実だと信じているものを虚構として批判しようとする作品である。 この反転こそ、世界舞台理論、世界物語理論、世界夢幻理論を一本につなぐ重要な構造だろう。
『ひきこもりの手記』のジャンルは何なのか?
『ひきこもりの手記』を一つのジャンルだけで説明するのは難しい。「令和の奇書」と呼ばれた例はあるが[1]、「奇書」は厳密な文学ジャンルというより、通常の分類からはみ出した本に対する受容や評価の言葉に近い。本作は、どの側面を見るかによって分類が変わる。
思想小説/理論小説
作品の機能から見れば、まず思想小説である。自由意志、正義、精神医学、社会、言葉、認識、性、夢、世界について、出来事の説明以上の熱量で思索が続く。さらに、語り手自身が理論を作り、修正し、反転させるという特徴を考えれば、便宜的に「理論小説」と呼ぶこともできる。ただし、「理論小説」はここでは確立された公式ジャンル名ではなく、本作の性質を説明するための批評的な呼称である。
手記形式の実験小説
形式から見れば、手記形式を利用した実験小説と考えられる。人生記録、過去のメモ、夢、思想、犯行をめぐる記述などが一つの手記へ編纂される一方、その手記自体が選択され、改稿され、断片化される。第2部では300から1へ番号が逆行し、文体も統一されない。記録された人生とは何なのか、出来事を選択して文章へした時点で、それはすでに別の物語なのではないか。その問題まで形式そのものに組み込まれている。
規範侵犯的小説
内容と倫理の側面からは、規範侵犯的小説として読むことができる。殺人、暴力、差別的表現、反道徳的思想、人間嫌悪、精神医学への敵意、性、自殺など、社会的・倫理的に扱いづらい領域へ踏み込む。しかも、「正常」「正義」「犯罪者」「患者」といった分類自体も疑う。英語圏でいう transgressive fiction(規範侵犯的小説)と接続して考えられる性格を持っている。
異端文学・アングラ文学・アウトサイダー文学
文化的な位置づけとしては、異端文学、アングラ文学、アウトサイダー文学といった言葉が近い。ただし、これらも厳密な公式ジャンルとして断定するより、作品の位置を説明する批評語として使う方が適切だろう。本作の特徴は、社会の中心から周縁を観察するのではなく、周縁に置かれた人物の側から社会全体を観察し返すことにある。
障害者文学として読むことはできるか
精神医学、診断、精神病院、正常と異常、医療者と患者の関係が重要な問題として扱われるため、障害者文学という観点から読むことも可能である。ただし、これは現実世界の著者の属性を認定する話ではない。あくまで、作中人物と作品のテーマをどのような文学的文脈で読むかという問題である。
なぜ『ひきこもりの手記』をアングラ文学として読むのか
本作をアングラ文学と接続できる理由は、単に内容が過激だからではない。重要なのは、誰が誰を観察しているかである。〈私〉は社会の外側に置かれた人間として語られる。しかし、社会から脱落した人間として一方的に観察されるだけでは終わらない。世間知らずと呼ばれれば、世間の側こそ「世間の外側」を知らないのではないかと反論する。患者として診断されれば、精神医学と医師の論理を分析する。異常者として見られれば、正常とされる社会の方を見返す。
周縁に置かれた人物が中心を観察する。そしてその視線は、最終的に読者へも向かう。読者が異常者を観察しているのではなく、異常者と呼ばれる側から読者の「正常さ」が疑われる。この視線の反転、通常の商業文学から逸脱した構成、自主出版とネットを中心に流通してきた経緯、規範侵犯的な内容を考えれば、本作を現代のアングラ文学という文脈へ置くことには十分な理由がある。日本のアングラ文学そのものの定義や系譜については、別記事「アングラ文学とは?」で詳しく扱う。
なぜ『ひきこもりの手記』は読者を不愉快にさせるのか?
本作には暴力や殺人、反倫理的な思想が登場する。しかし、不愉快さの原因はそれだけではない。自己愛、被害者意識、人間嫌悪、攻撃性、懐疑、卑屈さ、悪意、矛盾といった、通常なら他人へ見せない精神の動きが大量に露出する。さらに、読み進めるほど情報が増えるのに、真相はむしろ不安定になっていく。
そして何より、読者自身が安全な観察者でいられない。怪物を檻の外から観察していたつもりが、途中で、檻の中の怪物もこちらを観察していたことに気づく。この精神的なグロテスクさについては、別記事「精神の畸形|『ひきこもりの手記』とサイコグロテスク」で詳しく扱う。
こんな人にはおすすめ
『ひきこもりの手記』は万人向けではない。作品自身が「100人中1人」のためのものと宣言しているくらいである。『ドグラ・マグラ』『地下室の手記』『裸のランチ』のような一筋縄ではいかない本、思想小説、実験文学、アングラ文学、規範侵犯的小説、ネット怪文書、信頼できない語り手、きれいな真相を与えてくれない作品が好きな人には、かなり珍しい読書体験になるだろう。
第三者による評価も極端で、2021年には「令和の奇書」と紹介される一方、レトリックや文学性を高く評価する読者もいた[1]。2024年の投稿では文学性85点、狂気度90点と評価され、「他作品では体験できない独特の読後感」があるとして奇書好きへ薦められている[3]。ただし、明快な物語、安定した文体、説明された真相、すっきりした結末を求める読者にはかなり厳しい。「面白いから誰にでも薦められる本」ではない。むしろ、普通ではない本を探している人が、自分の責任で手を出す本に近い。
FAQ
読む価値はある?
これは読者による。明快なストーリーや娯楽性を求める読者には、かなり向いていない。長大で、思想的な文章が多く、物語は断片化し、暴力、反道徳的な思想、差別的・攻撃的な表現など、不快に感じうる要素も多い。万人に薦められる本ではない。一方で、実験文学、思想小説、アングラ文学、規範侵犯的小説、通常の商業文学では出会いにくい極端な作品を探している読者にとっては、読む価値を見いだせる可能性がある。Visceraとして評価するなら、本作の価値は「完成度の高い娯楽作品」であることよりも、小説という形式、道徳、常識、そして読者自身の現実認識をどこまで疑えるかを試している点にある。
『ドグラ・マグラ』と比べるとどう?
作品の完成度や文学史上の重要性を単純に比較することはできない。ただし、思想的・倫理的な「危険さ」という観点では、Visceraは『ひきこもりの手記』の方が強い作品だと評価する。これは客観的な危険度を測定した事実ではなく、作品を比較した批評的評価である。
『ドグラ・マグラ』も、精神、遺伝、自己同一性、正常と異常といった問題を扱う極めて異様な小説である。一方で、一つの長編小説として構成され、商業出版された文学作品でもある。それに対して『ひきこもりの手記』は、自ら物語の破綻や論理の矛盾を認め、文体の逸脱、読者への挑発、反道徳的な思想まで作品構造へ取り込んでいる。そして世界舞台理論、世界物語理論、世界夢幻理論を通して、社会的役割、因果関係、意味、論理、認識、法則にまで懐疑を広げる。その「毒」は、単に猟奇的な内容や狂気の描写にあるのではない。読者が現実だと思っている世界そのものを疑わせようとすることにある。少なくとも、読者の常識や世界認識へ直接攻撃を仕掛ける度合いという点では、『ひきこもりの手記』の方が露骨で、制御されていない作品だとVisceraは読む。
何ページある?
Amazonの商品表示では、2022年刊行のペーパーバック版は602頁である[5]。電子版は分冊されているため、ペーパーバック版の602頁と各Kindle巻の表示頁数を単純に対応させることはできない。
まとめ:「令和の奇書」をアングラ文学の現在から読む
『ひきこもりの手記』について調べ始めると、「令和の奇書」「Amazonから何度も消された」「酒鬼薔薇聖斗が書いたのではないか」「文章が異様にうまい」といった妙な評判や噂に出会う。そうした話だけを並べれば、ネット上にときどき現れる「怖い本」「謎の本」の一つとして消費することもできる。
しかし、この作品の本当の奇妙さは噂よりも本文の方にある。世界舞台理論では社会的役割が舞台上の役として疑われ、世界物語理論では因果関係や人生そのものが人間の作った物語として疑われ、世界夢幻理論では意味、論理、認識、法則、世界そのものまで疑われる。そして最後には、読者と虚構の関係が反転する。
読者が虚構を眺めているだけではない。虚構の側が、読者の現実を眺め返している。 これが、『ひきこもりの手記』のもっとも奇妙な部分なのかもしれない。「令和の奇書」という呼び名が作品の価値を保証するわけではない。しかし、なぜ誰かがこの本を「奇書」と呼びたくなったのかは、読めばかなり分かる。本を閉じても、疑われた現実は元に戻らない。
『ひきこもりの手記』をAmazonで読む
電子版は[0]~[3]の全4冊シリーズとして表示されている[4]。本編から読む場合は第1巻[1]へ。ペーパーバック版は序文・第1部・第2部をまとめた602頁の版である[5]。
Kindle版・本編第1巻をAmazonで見る
ペーパーバック版『ひきこもりの手記』をAmazonで見る
この記事の調査について
本記事では、『ひきこもりの手記』本文を基準として、作品構造、人物、事件、思想、時系列、証言、作中文書の関係を確認した。また、Amazon等の書誌・販売表示、著者側公開情報、第三者による紹介記事、読者投稿等を参照した。
作品本文における作中筆者の自己申告と、現実世界の著者に関する事実は区別している。作中で語られる殺人を現実の著者による犯罪として認定しておらず、本文上で複数の読みが成立する事件についても、一つの真相へ固定していない。
「Amazonから何度も削除された」「酒鬼薔薇聖斗が著者である」といった内容についても、そのような噂や証言が公開されていることと、その内容自体が事実であることを区別した。本記事における「アングラ文学」「規範侵犯的小説」「『ドグラ・マグラ』より思想的・倫理的な危険度が高い」といった評価は、確認済みの書誌事実ではなく、本文の構造・内容を踏まえたVisceraによる批評的分類・評価である。
注
- HorrorCat「おすすめ 令和の奇書『ひきこもりの手記』」(note、2021年2月2日)。本作を「令和の奇書」と紹介し、当時の読者による評価や噂を紹介している。
- 奇書が読みたいアライさん「2021年2月」(note、2021年3月1日)。本作について「Kindleに繰り返し登録されては削除されてる謎の本」と紹介している。この記述は、Amazonによる削除の事実・回数・理由を独立して確認するものではなく、当時そのような情報が流通していたことを示す第三者資料として参照した。
- 「現役東大生だが『読むと頭がおかしくなる文学ランキング20』を全部読破した」(2024年12月20日の5ちゃんねる投稿を哲学ニュースnwkが掲載)。投稿者は本作を「究極の電波系思想小説」「黎明期のWeb小説にあったアングラ感+文学」などと評価している。いずれも投稿者個人の評価である。
- Amazonのシリーズ表示では、Kindle[0]~[3]を全4冊シリーズとして掲載している。Amazon『ひきこもりの手記』シリーズ/Amazon Kindle版・本編第1巻。
- Amazon「ひきこもりの手記(HIKIKOMORINOTE): ペーパーバック版」。Amazonの商品表示では、著者MMM、2022年刊行、602頁と表示されている。
参考資料・主要出典
作品本文・著者側公開情報
- 『ひきこもりの手記』作品本文
- MMM公式サイト「Literature」
書誌・販売情報
第三者による紹介・受容
- HorrorCat「おすすめ 令和の奇書『ひきこもりの手記』」
- 奇書が読みたいアライさん「2021年2月」
- 哲学ニュースnwk掲載「現役東大生だが『読むと頭がおかしくなる文学ランキング20』を全部読破した」
※本記事はATTESTED記事です。事実記述は実在し確認可能な資料に基づき、第三者の見解、筆者による推論・解釈・評価を含む場合には、それらを確認済みの事実と混同しない形で記載しています。現実の事実として提示される意図的な虚構や捏造は含みません。
提供:MMM(『ひきこもりの手記』発行元)