キメラの歌──『魚の夢』における不正確な記述の重ねあわせ

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MMM氏の『魚の夢』は、読者にたえず噛みあわない会話を聞かせる小説である。登場人物たちは同じセックスについて語りながら意見を一致させることがなく、一人の人物の過去は本人と周囲とで別の説明を与えられ、記録には残っているのに当人の記憶には存在しない出来事までが現れる。氏の前作『ひきこもりの手記』を特徴づけていた、震えながらも一点を指そうとする単独の声は、ここでは無数の声に増殖し、しかもそれらは同じ方向を指してくれない。

たしかに、これらを「矛盾」と呼ぶことはできる。第1部冒頭の注意書き自体が「物語は破綻しているし論理は矛盾しています」と読者に告げている。しかし第1部第12章3に至ると、矛盾は欠陥である以前に、この小説が世界を見る方法であることが明らかになる。

その方法を、魔女は福音書の相互矛盾を例に、次のように説明する。

話はイエスからマグダラのマリアへ、人権へ、さらに性・愛・正義といった概念に移り、その到達点はこうである。

魔女の語りにおいて、概念や言葉や精神は固定された標本ではない。別の分野に入り込み、別の言語に翻訳され、人から人に渡るうちに独自の変化を起こす。性や愛や正義ほど長い歴史を持つ概念であれば、なおのこと一枚の定義には収まらない。実際、第12章3の後半で、それらは「細菌のようにひとびとの口を介して変異していきます」とまで語られる。

本稿はこの発想を「不正確な記述の重ねあわせ」と呼ぶ。ここでいう「不正確」は誤記や事実誤認に限らない。一人の人間が一つの時代、一つの身体、一つの場所から書く以上、記述はどうしても部分的にならざるをえない、という意味での不正確さを含む。そして『魚の夢』が真に興味深いのは、第12章3でこの考えが説明されるはるか以前から、小説がいたるところでそれを実践している点にある。

氏の前作『ひきこもりの手記』の序盤には、『魚の夢』の方法を考えるうえで奇妙に引っかかる一節がある。同作は数十年間にわたって書かれた断片を編んだという体裁をとり、十歳、十五歳、二十歳、三十歳の文章では内容も文体も変わって当然だとする。それらは「乱視者が見ている風景」のように、輪郭が重なり、ずれ、ぼやける。矛盾を取り除いて一貫した記録を作ることは、熱帯雨林から美しい植物だけを拾って植物園を作り、それを本当の熱帯雨林として見せるようなものだと、書き手はいう[2]。そのすぐあとに、「指と月」の比喩が置かれる。

言葉は震えている。月を指したはずの指が太陽に流れることもある。それでも、その震えには方向があると書き手は断言する。『魚の夢』では、この一本の指が無数の声に化けている。魔女と正義君が反論しあい、愛や真理やポルンがそれぞれの経験を持ち込み、作中文書が挟まり、編纂者までが口を出す。一本の指なら軌跡を追える。百本の指が同時に動きはじめれば話は別である。『魚の夢』は、その百本から一本だけを選んで残すことを、頑として拒む。

この方法がもっとも小さく、もっとも痛切に現れるのが、第2部第2章「筆者の混乱した日記」の手鏡である。

この抜粋には「2002.05.13」の日付が付されている。続く5月19日の記録は、こう続く。

ここで確実に食い違っているのは、現在の記憶と過去の記録、そして日記のなかで報告される愛の証言である。5月19日のいう「10日前」が具体的にどの記録を指すのかは確定できない。掲載された5月9日の抜粋に手鏡の話は見当たらないが、各項目には「〜より」とあり、日記の全文が掲載されている保証はない。さらに第2部第1章では、編纂者が創作日記をそのまま掲載できず、「最低限必要な修正」を加えたことまで明かしている[5]。記憶が怪しいから記録を見る。しかし読者に渡される記録は抜粋であり、編集済みであり、しかもそれに反する証言まで付いている。書き手はそこから、過去を「幽霊」にたとえる。すでに消えた世界は、記憶、文字、残された物、他人の話によって気配を残すのみである。手鏡という取るに足らない小道具をめぐって、小説には途方もなく大きな穴が開いている。

第2部第15章に至ると、この穴は一人の人間の全体を呑み込む。愛は正義君の子供時代──貧しい家庭、いじめ、借金取り、母親との生活──について長く語る。外から見れば悲惨という語を使いたくなる環境である。だが愛が紹介する正義君自身の日記は、まったく別の調子で書かれていたという。

「だけどね、正義君自身は自分を不幸とはおもっていなかったんだよ。なぜならお母さんを愛していたから。お母さんと愛しあっていたから。彼は日記を毎日付けてて、その当時の生活が、眩しくなるほど華やかに表現されていたんだよ。実際には過酷な生活のはずなのに、彼の日記にはそういう生活がびっくりするほど色鮮やかなものとして描かれていたの。」[6]

同じ過去に、外部から別の名前が与えられる。

「正義君は性的虐待の被害者として、お母さんは性的虐待の加害者として、社会的で単純な解釈をくわえられて保護された。」

正義君は母親を擁護し、「自分達は誤解されている」と主張する。その言葉さえ、本人の証言としてそのまま受け取られることはない。

「彼は『母親に洗脳されたかわいそうな少年』あるいは『母親に傷付けられたことを自覚できていないあわれな少年』とみなされた。」[7]

これは『魚の夢』のなかでもとりわけ嫌な、そしてとりわけ鋭い場面である。「自分は被害者だ」と言えば被害者になり、「被害者ではない」と言えば被害を自覚できていない被害者になる。YESと答えてもNOと答えても、あらかじめ用意された物語から出られない。たしかに、正義君自身の記述をそのまま最終回答にすることはできない。子供が幸福だと感じていたことと、その環境を外部からどう評価するかは別の問題であり、この章で読者が知る正義君の家庭史自体、かなりの部分が愛の語りを経由している。それでも、一人の人間について「正しい説明」を一つ選び出そうとした瞬間、別の記述が邪魔をしはじめる。被害者という言葉は正義君について何かを説明する。母親を愛した少年という記述も消せない。成長後の彼には、患者、天才、加害者、危険人物という別の顔まで加わる。どれか一つを人物そのものとして採用すれば、残りが余計になる。『魚の夢』は、その余計な部分をなかなか捨てない。

同じことが、魔女の交友会にも当てはまる。そこでは相当な時間、全員がセックスについて語っている。ところが正義君のいうセックスと魔女のいうセックスは、同じ単語を使っているという以上にはほとんど似ていない。正義君はセックスを罪や苦しみの根に据え、セックスを終わらせることにまで議論を進める。第5部に至ってなお「問題はセックスにはじまりセックスにおわる」と語るほど、その発想は執拗に持続する。魔女は反対に「Sex Phobia」という概念を持ち出す。

「Sex Phobiaとは支配欲です。それは、性という混沌にたいする嫌悪であり、また混沌を支配したいという欲求なのです。」[8]

彼女の話は、性道徳を誰が決めるのか、どの線引きが社会全体を支配しているのかという問題に向かう。別の箇所では身体と快楽を露骨に肯定し、社会的な正しさより当事者同士の実感を優先する。正義君がセックスから出生や人間の苦に進む一方で、魔女は性を抑え込む社会のほうに目を向ける。真理やポルンが口を開けば、そこに病気、死、恋愛、仕事といった個人的な経験が流れ込む。交友会で共通定義が作られる気配はほとんどない。同じ「セックス」という語が口にされるたび、話は横に広がり、別の問題と結合する。概念は「細菌のようにひとびとの口を介して変異していきます」という魔女の言葉は、交友会全体の説明として読める。

第2部に入ると、編纂者が制作過程についてさらに露骨なことを明かす。筆者は当初、世界を一つの物語、一つの理論、一つの思想としてまとめようとしていた。交友会の結末を何度も書き直し、加筆を続けた末に、「書けば書くほど記述は膨張して、世界は分裂した」。第1部と第2部以降には辻褄のあわない箇所があり、「記述にはズレ・ブレ・ユレがみられる」とも書かれている。討論として見れば、魔女の交友会はみごとに失敗している。全員を納得させる定義も、最後にすべてを丸く収める思想も出てこない。それでも、正義君か魔女のどちらか一人に延々と演説させた作品より、この失敗した交友会のほうが『魚の夢』にははるかに似合っている。

証言の食い違いを構造にした文学として、読者はまず芥川龍之介の『藪の中』を思い出すだろう。一つの事件について複数の人物が語り、核心に近づくほど説明が一致しなくなる。Inge van de Venが2025年に行った読者調査によれば、実際の読者が『藪の中』の話者をどう信用・不信用と判断するかは、読者個人の固定した性格特性には還元できず、物語の提示順序や、各人物を信用する/しない理由を含む文脈依存的な解釈として現れた。証言が割れれば、どの声をどう扱うかという仕事は読者に渡される。(MDPI)

フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』では、過去の再構成がさらに肥大する。トマス・サトペンの物語は五つの語りを中心に組み立てられ、それぞれが伝聞や別人の証言、ときには想像までを動員する。Digital Yoknapatawphaが整理するとおり、それらは互いを補いながら矛盾し、読者には何が「本当に」起きたのかを最終的に決定する手段が与えられない。重要なのは、信頼できない語りを捨てればよいという構造でもないことだ。同プロジェクトは、ローザの偏見に満ちた語りについても、単純に排除するより、なぜ彼女が過去をそのように歪めるのかを見るほうが重要だと指摘している。(Faulkner Archive)

ゴシック文学にもまた、欠けた手稿、手紙、伝聞、断片、不明瞭な記録を通して何かに接近する長い伝統がある。Alison Milbankはゴシック散文について、言葉がしばしば「言い表せないもの」の手前まで進み、断片や曖昧さ、複数の要素を組み合わせる文体によって、人間の合理的理解そのものが部分的ではないかという疑いを生むと論じる。壊れた記録は雰囲気作りの小道具ではなく、理解する側の限界を露出させる装置なのである。(Cambridge University Press)

芥川的な構造では、食い違う証言によって真相が遠ざかる。フォークナー的な構造では、過去を再構成する声が、再構成の過程で過去の形まで変えていく。ゴシック的な構造では、欠けた媒体が人間の理解能力そのものを疑わせる。『魚の夢』第1部第12章3は、こうした古い問題に一つの奇妙な肯定を加える。ずれているなら、そのずれを全部取り除いてはいけない。「破損した文書の海」で溺れること自体が、対象に接近する方法として語られるのである。

第1部第12章3の終盤で、魔女は性・愛・正義に話を戻す。これらは長い歴史を持ち、あまりに多くの人間が別々の場所から語ってきた。単声的な語りで捉えることには限界があり、不協和音を含み、ズレ・ブレ・ユレを抱えた「無限の重奏」が必要だと彼女はいう。その重奏に、魔女は名前を与える。

「それは一頭になろうともとめて混ざりあいながらも、永遠に一頭になれない百万頭の、あるいは百万頭の頭をもったままもがいている一頭の、詰まりはキメラの歌なのです。」[1]

この比喩を作品全体に広げることに、無理はない。手鏡をめぐって記録と記憶は噛みあわず、正義君は語る人間によって別の人物像を結び、交友会のセックスは一つの定義に近づくどころか、話すほど別の問題を巻き込む。第2部の編纂者によれば、一つの思想にまとめるはずだった本そのものが、書けば書くほど分裂した。『ひきこもりの手記』では、震える一本の指が月を指そうとしていた。『魚の夢』では指が増えている。しかも百本の指は同じ一点を指してくれない。月から外れるものもあれば、別の指に押されて方向を変えるものもある。その動きまで消して一本だけを残せば、実際、見通しはよくなる。そのかわりに失われるものがある。

一頭になろうとして、一頭になれない。その状態のまま声を出しつづけること。『魚の夢』が「ズレ・ブレ・ユレ」を抱えたまま巨大化していく理由の一つは、魔女自身が名づけた「キメラの歌」にある。結果として生まれたのは、不揃いで、行儀が悪く、そして過剰に多声的な一冊──一頭になり損ねたまま、歌うことをやめない小説である。

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注・参考資料

[1]MMM『魚の夢』第1部第12章3。福音書の相互矛盾、「ズレ・ブレ・ユレ」、「QとはPである」という定義の限界、「一枚の完全な文書」、概念の変異、多声性、「キメラの歌」をめぐる魔女の発言。
[2]MMM『ひきこもりの手記』第1部第0章。数十年間にわたる記述の不一致、「乱視者が見ている風景」、熱帯雨林と植物園の比喩。
[3]MMM『ひきこもりの手記』第1部第0章。「指で月を示すと馬鹿者は指をみる」という譬えと「震える指先」の記述。
[4]MMM『魚の夢』第2部第2章7〜8。「筆者の創作日記2002.05.13.より」「2002.05.19.より」。手鏡をめぐる記録、記憶、愛についての日記内の証言。
[5]MMM『魚の夢』第2部第1章。創作日記への編集介入、第1部と第2部以降の「ズレ・ブレ・ユレ」、世界を一つの物語・理論・思想へ統合しようとした構想の失敗についての編纂者の説明。
[6]MMM『魚の夢』第2部第15章。正義君の幼少期と、当時の日記についての愛の説明。
[7]同章。正義君と母親が「性的虐待の被害者/加害者」と位置づけられ、本人による否定も別の説明へ組み込まれていく場面。
[8]MMM『魚の夢』第1部第12章。魔女によるSex Phobia、性道徳、支配についての発言。
Inge van de Ven, “Trust in Stories: A Reader Response Study of (Un)Reliability in Akutagawa’s ‘In a Grove’,” Literature, 5(4), 2025. MDPI
Digital Yoknapatawpha, University of Virginia, “The Narrative Sources of Absalom, Absalom!” および関連解説。Faulkner Archive
Alison Milbank, “Gothic Prose,” in Daniel Tyler ed., The Cambridge Companion to Prose, Cambridge University Press, 2021, pp. 164–179. Cambridge University Press

提供:MMM(『魚の夢』発行元)

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