『重力の虹』(Gravity’s Rainbow)は、トマス・ピンチョンが1973年に発表した長編小説である。第二次世界大戦末期、V2ロケットが落下するロンドンから始まり、敗戦後のドイツへ移りながら、一発の特殊なロケット「00000」をめぐる探索が広がっていく。
1974年には全米図書賞を受賞した一方、ピュリッツァー賞では小説部門の審査員団が推薦したものの評議会に採用されず、同年の小説部門は授賞なしとなった[3][4]。刊行以来、「難解」「猥褻」「通読困難」「読んだふりをする本」といった評判も付きまとってきた。
しかし、この小説の物語そのものは、評判ほど掴みどころのないものではない。自分が女性と関係を持った場所と、数日後にV2ロケットが落下する場所がなぜか一致してしまう米軍中尉が、自分に何が仕組まれているのかを追っていく。
主人公タイローン・スロースロップは、自分が幼児期に奇妙な条件づけ実験を受けていたらしいことを知り、やがて「00000」という通常ではない番号を持つロケットと、その内部に搭載されたらしい謎の装置へたどり着く。数百人の人物と大量の脱線があっても、物語の中心にはこの探索がある。
本当に難しいのは、あらすじが存在しないことではない。誰の説明を信用すればいいのか、その基準が最後まで安定しないことにある。科学者は仮説を語り、軍は情報を操作し、企業と国家は結びつき、偶然に見えた出来事が別の出来事へ接続していく。読者は、それぞれの情報が作品内でどの程度確かなものなのかを自分で判定しなければならない。
この記事では、『重力の虹』とはどのような作品なのか、ネタバレなしのあらすじ、「読めない」という評判の由来、難解な理由、日本語訳、読み方、登場人物、史実と虚構、主要なテーマ、そして結末で何が確定して何が確定しないのかまで整理する。前半は結末に触れず、後半では全面的なネタバレを含む。なお、作品の詳細な解釈に関しては「『重力の虹』はどのように読みうるか」で扱った。
目次
- 『重力の虹』とは何か
- ネタバレなしでわかる『重力の虹』のあらすじ
- 「読めない」「猥褻」は本当か
- なぜ『重力の虹』はこんなに難しいのか
- 日本語で読むには――旧訳と新訳
- 『重力の虹』を挫折せず読むには
- 『重力の虹』全4部を一行で整理
- 詳しいあらすじ【ネタバレあり】
- 主な登場人物
- 主な組織
- 『重力の虹』はどこまで実話なのか
- 『重力の虹』のテーマを理解する5つのキーワード
- タイトル「重力の虹」は何を意味するのか
- 結末で何が確定し、何が確定しないのか
- 結局、『重力の虹』は何についての小説なのか
- よくある質問
- まとめ
- この記事の調査について
- 注
『重力の虹』とは何か
『重力の虹』は1973年、ニューヨークのViking Pressから刊行されたトマス・ピンチョンの第3長編である。第1長編『V.』(1963)、第2長編『競売ナンバー49の叫び』(1966)に続く作品で、初版は760頁[1]。全4部からなり、各部の内部には題名のない区切りが置かれている。研究や読書ガイドでは、それらを21+8+32+12の計73区分として数えるのが一般的だが、「第1章」から「第73章」まで作品自体に番号が振られているわけではない。
作者のトマス・ピンチョンは1937年生まれ。コーネル大学を卒業するまでに海軍勤務を経験し、卒業後の1960年から62年にはボーイング社で技術文書の仕事をしている[2]。ロケット、誘導、軍需産業などを描くうえで技術的語彙に接する経歴上の基盤は確認できるが、「ボーイングでの経験が『重力の虹』の特定場面を直接生んだ」とする本人の証言までは確認されていない。
1974年には全米図書賞の小説部門をアイザック・バシェヴィス・シンガーの『A Crown of Feathers and Other Stories』と共同受賞した[3]。同年のピュリッツァー賞をめぐる経緯については後述する。
『重力の虹』は、ポストモダン小説や百科全書的小説、システム小説などの枠組みで論じられてきた[14]。最初からそうした分類を覚える必要はない。物語を動かしている問いは、「なぜスロースロップの身体とV2着弾地点に奇妙な対応があるのか」「00000というロケットには何が積まれているのか」「誰がそれを追っているのか」という比較的単純なものである。
普通の探索小説と違うのは、証拠が増えるほど答えが一つに収束するのではなく、複数の説明可能性が残り続ける点である。『重力の虹』と「メガノベル」という概念との関係については、別記事「メガノベルとは何か」で詳しく扱う。
ネタバレなしでわかる『重力の虹』のあらすじ
物語は1944年の冬、V2ロケットの攻撃を受けているロンドンから始まる。V2は超音速で飛来し、着弾前に警告音を聞くことがほぼできなかった[9]。そのため地上では、爆発した後になって飛来音が届くという知覚上の逆転が起こりうる。この現象が、『重力の虹』の冒頭から繰り返される「原因と結果をどの順序で理解するのか」という問題の入口になる。
米軍中尉タイローン・スロースロップは、自分が女性と関係を持った場所をロンドンの地図に星印で記録している。統計学者ロジャー・メキシコがその地図をV2の着弾地点と比較すると、奇妙な対応が見つかる。スロースロップが星を付けた地点に、数日後になってV2が落ちているように見えるのである。
パヴロフ派の心理学者エドワード・ポインツマンは、この一致に強い関心を持つ。調査の過程で、スロースロップが幼児期にラズロ・ヤンフという化学者の実験対象となり、ある刺激に対する性的反応を条件づけられていたらしい記録が見つかる。しかしスロースロップ本人はそのことを知らず、軍や研究者たちは本人に知らせないまま彼を観察する。
やがてスロースロップは、文書の中に通常ではありえない番号を持つロケット「00000」、その内部に搭載されたらしい「シュヴァルツゲレート(Schwarzgerät)」という装置、そして「イミポレックスG(Imipolex G)」という特殊なプラスチックの名を見つける。自分が観察されていることに気づいた彼は逃走し、敗戦後のドイツへ入っていく。
しかし00000を探しているのは彼だけではない。軍、情報機関、技術者、闇商人、ソ連、企業、そしてドイツ領南西アフリカから続く歴史を背負うヘレロ系ロケット部隊までが、それぞれ別の目的で同じロケットへ近づいていく。
主人公と読者はほぼ同じ場所から出発する。スロースロップは自分に何がされたのか知らず、読者も知らない。手がかりは大量に与えられるが、それらの間にどこまで因果関係が成立しているのかは、簡単には確定しない。
「読めない」「猥褻」は本当か――『重力の虹』の伝説
『重力の虹』には、作品そのものと同じくらい有名な評判がいくつもある。「通読不能」「猥褻」「ピュリッツァー賞に拒否された」「読んだふりをする本の代表」「審査員ですら読み終えていなかった」。これらは同一の出来事に由来するものではなく、1973年の同時代評、1974年の文学賞をめぐる報道、後世の出版社紹介や記事など、それぞれ異なる資料に現れる。
刊行当初から「難しい」と評価されていた
『重力の虹』が読みにくいという評価そのものは、後から作られた都市伝説ではない。1973年の刊行直後、Richard Poirierは作品の巨大な規模や歴史・技術・文化を結びつける形式を高く評価した。一方Richard Lockeは『New York Times Book Review』で、本作を当時もっとも長く、難しく、野心的な小説の一つと評しながら、後半については構造が限界まで引き伸ばされ、読者に疲労や苛立ちを生じさせるとも批判している[5]。
つまり刊行当時から、「非常に野心的で優れた作品である」という評価と「非常に読みづらい作品である」という評価は同時に存在した。
1974年――全米図書賞受賞とピュリッツァー賞授賞なし
1974年、『重力の虹』は全米図書賞の小説部門を受賞した[3]。一方、ピュリッツァー賞の公式資料では1974年がNovel/Fiction部門の「授賞なし」の年として記録されている[4]。
Peter Kihssが1974年5月8日の『New York Times』で報じたところによれば、小説部門の3人の審査員は『重力の虹』を一致して推薦したが、ピュリッツァー賞評議会がこれを採用しなかった[4]。同記事を参照する後年の資料では、評議会側の反応として“unreadable”“turgid”“overwritten”“obscene”といった語が引用されている。
したがって、「『重力の虹』はピュリッツァー賞を受賞した」は誤りである。一方、現在の制度上の意味で「正式なファイナリストだった」と説明するのも適切ではない。審査員団が推薦したが評議会が採用せず、1974年は小説部門の授賞がなかったとするのが正確である。
新潮社は「審査を拒否した超危険作」と紹介している
2014年の新潮社版公式ページでは、本作を「ピューリッツァー賞が『卑猥』『通読不能』と審査を拒否した超危険作」と紹介している[6]。同じページに掲載された刊行記念インタビューの導入では、「ピューリッツァー賞評議会からは授賞を拒否された」と別の表現も使われている[6]。
歴史的な経緯を細かく見ると、小説部門の審査そのものが行われなかったわけではない。審査員団は作品を推薦しており、その推薦を評議会が採用しなかったためである[4]。
「誰も読み終えられない」は別問題
英語圏では後年、『重力の虹』が「読んだふりをする本」を扱う文章にも登場している。たとえば2007年の『Harvard Crimson』には、Pierre Bayardの『How to Talk About Books You Haven’t Read』を論じる記事として“You’ve Read ‘Gravity’s Rainbow’? Bullshit”という題の記事が掲載されている[7]。
しかし、「アメリカの大学生が読んだふりをする本ランキング1位」「全米図書賞の審査員も誰一人最後まで読んでいなかった」といった形で日本語圏に流通する説明については、現在の調査では確かな一次出典を確認できていない。したがって、刊行時から非常に難しい本だったことと、誰も読了していないという後世の伝説は分けて扱う必要がある。
なぜ『重力の虹』はこんなに難しいのか
『重力の虹』が難しい最大の理由は、単純にページ数が多いからではない。もちろん長く、登場人物も多く、科学の話も大量に出る。しかし、それ以上に厄介なのは、情報を整理するための基準そのものが安定しないことである。
まず、登場人物が非常に多い。一度しか出ない人物もいれば、後になって重要になる人物もいる。実在人物と架空人物も混ざり、スロースロップ自身も逃亡の過程でRocketmanなど複数の名前や役を使う。そのため、すべての人物名を同じ重要度で記憶しようとすると、主要な物語線が見えにくくなる。
次に、視点が予告なく変わる。一般的な長編小説では、一人称や三人称、あるいは章ごとの視点人物がある程度固定されている。『重力の虹』では、人物の内面から語り手へ移り、映画のようなカメラになり、夢や集団的な意識へ接続することがある。読者が混乱するのは内容だけでなく、そもそも「誰の知覚として提示されているのか」が安定しないためでもある。
さらに、史実と虚構が同じ密度で書かれる。V2ロケット、IGファルベン、ドイツの植民地主義、強制労働、戦後の技術争奪などには実在の歴史的背景がある[9][10][11][12][13]。一方、ヤンフ、イミポレックスG、00000の特殊装置、PISCESなどは虚構である。ところが作品は、史実と虚構を視覚的に区別して提示しない。
科学用語も単なる飾りではない。統計学、確率、パヴロフ的条件づけ、ロケット工学、熱力学、化学、高分子、弾道計算などが物語の構造そのものに関わる。たとえばスロースロップの地図とV2着弾地点の問題では、対応が観測されることと、その背後の因果関係が証明されることは別である。しかしポインツマンは、その対応から一つの原因を探そうとする。
文体とジャンルも一定しない。戦争小説のように始まったと思えば、スパイ小説、探偵小説、ポルノグラフィ、ミュージカル、スラップスティック、神学、ホラー、アニメーションのような場面へ次々と切り替わる。そのため、同じ読み方を数百頁にわたって維持することも難しい。
そして最大の問題が、誰の仮説なのか分からなくなることである。スロースロップは幼児期に条件づけられた、イミポレックスGと彼の性的反応には関係がある、企業や国家は裏でつながっている――作品中にはさまざまな説明が現れる。しかし、それらすべてが同じ強さで事実として保証されるわけではない。観測、文書、記憶、研究者の推測、軍の宣伝、夢、映画、噂、偶然が同じ作品内に存在する。
つまり『重力の虹』の難しさは、「何が書いてあるのか分からない」というより、書かれている情報のうち、何をどの程度確かなものとして扱えばいいのかが安定しないという難しさなのである。
日本語で読むには――旧訳と新訳
『重力の虹』の日本語訳は大きく二種類ある。最初の邦訳は1993年、国書刊行会「文学の冒険」から全2巻で刊行された。訳者は越川芳明、佐伯泰樹、植野達郎、幡山秀明の4人で、2026年9月8日現在、出版社では品切増刷未定となっている[8]。
現在新品で入手しやすいのは、2014年に新潮社「トマス・ピンチョン全小説」から刊行された佐藤良明訳である。こちらも上下巻で、それぞれ752頁。2026年9月8日現在の定価は上下とも5,170円、合計10,340円である[6]。
新潮社版には詳細な註、解説、索引が付されている[6]。刊行時のインタビューでは翻訳開始から7年が経過したことが紹介され、佐藤自身は実質的な作業量について「千日、一万時間」と述べている[8]。
旧訳と新訳の訳文そのものについて、本記事では優劣を判定しない。両訳の同一箇所を体系的に比較していないためである。現在新品で購入でき、註と人物・事項索引を利用しながら読むという実用面では、新潮社版の方が利用しやすい状況にある。
『重力の虹』を挫折せず読むには
初読用に物語線を最小限に整理すると、まず次の四本に分けられる。
- スロースロップ――自分に何がされたのか。
- 00000――特殊なロケットには何があるのか。
- ポインツマン/ヤンフ――誰がスロースロップを実験・観察しているのか。
- エンツィアン/ブリセロ――ロケットとドイツ植民地主義の歴史がどう接続するのか。
第3部へ入ると地名も人物も一気に増える。この部分では地理上の移動だけでなく、各人物の「探索対象」を区別すると物語線を整理しやすい。スロースロップは自分の過去と00000を追い、エンツィアンは00000を追い、チチェリンはドイツのロケット技術と異母兄弟エンツィアンを追い、ペクラーはロケット開発と家族をめぐる過去へ結びついていく。
さらに、V2ロケット、ミッテルバウ=ドーラの強制労働、戦後の米ソによるドイツ技術の獲得、ドイツ領南西アフリカにおけるヘレロ/ナマへの植民地暴力という四つの史実を把握しておくと、作品内の複数の物語線を区別しやすくなる[9][10][11][13]。
途中で情報の位置づけが分からなくなった場合は、「誰の視点・情報なのか」「スロースロップ、00000、制度、ヘレロのどの線に属するのか」「本文上の出来事なのか、登場人物の仮説なのか、夢・映画・宣伝なのか」という三点に分けると整理しやすい。新潮社版を使用している場合は、巻末の註や人物・事項索引も人物確認に利用できる[6]。
なお、本作には合意のない性行為、未成年への性的加害、糞尿、拷問、強制収容所などを扱う場面が含まれる。初読時には、すべての引用元や科学的・歴史的参照をその場で解決しなくても、まず主要人物と00000をめぐる物語線を追うことで全体構造を把握できる。
ここからネタバレあり
以下では『重力の虹』の結末、00000、シュヴァルツゲレート、スロースロップの終盤を含む。
『重力の虹』全4部を一行で整理
| 部 | 主な場所 | 一行で言うと |
|---|---|---|
| 第1部「ビヨンド・ザ・ゼロ」 | 1944年末・ロンドン | スロースロップの地図、V2、幼児期実験という謎が提示される |
| 第2部「カジノ・ヘルマン・ゲーリングでの休暇」 | フランス南部 | スロースロップが自分の監視に気づき、00000を追って逃げ始める |
| 第3部「イン・ザ・ゾーン」 | 敗戦後ドイツ | 00000探索が企業・植民地・強制労働・米ソ技術争奪へ拡散する |
| 第4部「カウンターフォース」 | ドイツ+過去+未来 | スロースロップが物語の中心から散乱し、00000の過去が開示される |
『重力の虹』の詳しいあらすじ【ネタバレあり】
第1部「ビヨンド・ザ・ゼロ」――スロースロップの身体とV2
1944年12月、ロンドンではV2ロケットの攻撃が続いている。物語はパイレート・プレンティスから始まり、心理研究・諜報の拠点ホワイト・ヴィジテーション、統計学者ロジャー・メキシコ、パヴロフ派心理学者エドワード・ポインツマン、米軍中尉タイローン・スロースロップらの線へ分かれていく。
スロースロップは女性と関係を持った場所をロンドンの地図へ星印で記録している。ロジャー・メキシコがV2の着弾図と比較すると、星印は同じ地点へのロケット着弾に数日先行しているように見える。統計学者のメキシコはV2の着弾を確率分布として扱うが、ポインツマンは偶然では満足せず、その背後に原因を求める。
調査すると、幼児だったスロースロップがラズロ・ヤンフの条件づけ実験を受けていたらしい記録へたどり着く。スロースロップ本人にはそのことを知らせず、軍と研究者たちは彼を被験者として観察し始める。
この時点で本文が示しているのは、スロースロップの地図とV2着弾地点の間に異常な対応が観測されていること、そして幼児期の実験記録が存在することである。その二つの間にどのような因果関係が成立しているのかは確定していない。
第2部「カジノ・ヘルマン・ゲーリングでの休暇」――00000
スロースロップは「休暇」としてフランス南部へ送られる。しかし休暇そのものが実験の一部であり、カーチェ・ボルヘシウスとの出会いや、訓練された蛸グリゴーリによる襲撃と救出までが、スロースロップの反応を見るために仕組まれている。
その間にスロースロップは文書を調べ、通常ではない「00000」という番号を持つロケットに気づく。さらに「S-Gerät/Schwarzgerät」と呼ばれる装置、化学者ヤンフが作ったとされるイミポレックスGという特殊なプラスチックの存在が浮かび上がる。
自分が観察されていることに気づいたスロースロップは逃走する。ここで彼は研究者たちに観察される被験者から、自分の過去と00000を追う探索者へ変わる。この時点で00000、シュヴァルツゲレート、イミポレックスG、ヤンフが何らかの形で近接していることは示されているが、スロースロップ自身とそれらの因果関係はまだ確定していない。
第3部「イン・ザ・ゾーン」――探索が世界史へ広がる
ドイツは敗戦し、国家としての秩序が崩れる。占領軍、難民、元兵士、闇商人、技術者が入り乱れる空間を、作品では「ゾーン(Zone)」として描く。スロースロップはノルトハウゼンや地下ロケット工場跡などを移動し、自分の幼児期実験に父親や企業家ライル・ブランドが関与していた可能性を知る。
一方、00000を探す別の集団が現れる。エンツィアン率いるシュヴァルツコマンドである。彼らはドイツ領南西アフリカから続くヘレロの歴史を持つ人々で、ドイツのロケット技術を自ら扱うという位置に置かれている。ソ連軍人チチェリンも登場し、ドイツのロケット技術を追うと同時に、異母兄弟であるエンツィアンを殺すことに取りつかれている。
さらにロケット技術者フランツ・ペクラーの過去が語られる。ペクラーはブリセロに支配され、娘イルゼとの面会を利用されながらロケット開発へ従事していた。彼はシュヴァルツゲレートのためにイミポレックスG製の部材を作っている。
ここで00000の謎は、スロースロップ個人の身体から大きく外へ広がる。ロケットを作った技術者、軍、化学企業、強制労働、植民地主義、戦後の米ソによる技術獲得が同じ作品内へ集まってくる。スロースロップが「自分に何がされたのか」を調べる物語は、次第に社会制度と歴史をめぐる複数の線へ拡大する。
同時に、スロースロップ自身の探索は次第に焦点を失う。彼はRocketmanなど複数の姿へ変装し、ヨーロッパを移動し続ける。この時点で00000の構成要素はかなり見えているが、それらを一つにまとめる唯一の「真相」は提示されない。
第4部「カウンターフォース」――主人公が散乱し、ロケットが残る
第4部では、小説そのものがさらに断片化する。ロジャー・メキシコ、パイレート、カーチェらは巨大な軍事・企業・心理統制のシステムへ対抗しようとする「カウンターフォース」に近づく。
シュヴァルツコマンドでは、エンツィアンたちが廃部品から新たなロケット00001を組み立てる。一方、物語の主人公だったスロースロップには通常の意味での事件解決も死亡場面もない。彼は徐々に物語の中心から消え、噂、写真、記憶、痕跡のような形で語られるようになる。
そして最後になって、スロースロップが長く追い続けた00000の過去が示される。ドイツ軍ロケット指揮官ブリセロは、若いゴットフリートをイミポレックスGで包み、00000の内部へ入れる。本文は最終的にゴットフリート自身をシュヴァルツゲレートとして提示し、機械装置と人間の身体を単純に切り分けない。
ロケットは発射され、上昇し、燃焼を終え、弾道に入る。そこで物語は時間を飛び越え、1970年前後のロサンゼルスにある架空の映画館Orpheus Theaterへ接続する。ロケットは映画館の屋根の直上にあるが、落下する瞬間も爆発も描かれない。小説はその直前で終わる。
『重力の虹』の主な登場人物
『重力の虹』には数百人規模の人物が登場するが、まず次の12人を押さえると主要な物語線を区別しやすい。
| 人物 | 概要 |
|---|---|
| タイローン・スロースロップ(Tyrone Slothrop) | 米軍中尉。女性関係を記した地図とV2着弾地点の対応から観察対象となり、00000を追う |
| エドワード・ポインツマン(Edward Pointsman) | パヴロフ派心理学者。スロースロップの現象に一つの原因を見つけようとする |
| ロジャー・メキシコ(Roger Mexico) | 統計学者。V2着弾を確率として扱い、ポインツマンとは異なる認識の立場を取る |
| カーチェ・ボルヘシウス(Katje Borgesius) | 諜報・監視に関わる女性。ブリセロのもとにもいた |
| ラズロ・ヤンフ(Laszlo Jamf) | 架空の化学者。スロースロップの幼児期実験とイミポレックスGを結ぶ |
| ブリセロ/ヴァイスマン(Blicero / Weissmann) | ドイツ軍ロケット指揮官。00000の中心人物 |
| ゴットフリート(Gottfried) | ブリセロに支配される若者。00000へ搭載される |
| エンツィアン(Enzian) | ヘレロ系ロケット部隊シュヴァルツコマンドの指導者 |
| ヴァスラフ・チチェリン(Vaslav Tchitcherine) | ソ連軍人。ドイツ技術と異母兄弟エンツィアンを追う |
| フランツ・ペクラー(Franz Pökler) | ドイツ人ロケット技術者。家族を利用されながら特殊ロケット部品を作る |
| パイレート・プレンティス(Pirate Prentice) | 英国SOE関係者。初期の諜報線と後半の抵抗線をつなぐ |
| ジェシカ・スワンレイク(Jessica Swanlake) | ロジャー・メキシコの恋人 |
『重力の虹』に登場する主な組織
| 組織 | 実在/架空 | 役割 |
|---|---|---|
| PISCES | 架空 | ポインツマン、メキシコらが関わる心理・情報研究組織 |
| The White Visitation | 架空 | 心理・超常・諜報研究の拠点 |
| ACHTUNG | 架空 | スロースロップが所属する技術情報部門 |
| SOE | 実在 | 英国Special Operations Executive。ただし作中人物・任務は虚構を含む |
| Schwarzkommando | 架空 | ヘレロ系ロケット部隊 |
| IG Farben | 実在 | ドイツの巨大化学企業連合。ナチ体制や強制労働との歴史的関係を持つ[12] |
『重力の虹』はどこまで実話なのか――V2・ドーラ・ペーパークリップ・IGファルベン
『重力の虹』を読むうえで重要なのが、歴史的事実とピンチョンの虚構が混ざっていることである。
V2ロケットは実在する
V2はナチス・ドイツが第二次世界大戦末期に投入した実在の弾道ミサイルであり、1944年から45年にかけてロンドンなどを攻撃した[9]。英国国立公文書館は、V2が音速で飛行したため着弾前に警告音を出さず、防御がほぼ不可能だったと説明している[9]。
『重力の虹』ではV2は単なる兵器ではない。スロースロップの身体、統計、科学研究、企業、軍、宗教など、複数の物語線がV2を通じて交差する。
ミッテルバウ=ドーラの強制労働も実在する
V2などの生産には、ミッテルバウ=ドーラ強制収容所の囚人労働が使われた。米国ホロコースト記念博物館は、ドーラ=ミッテルバウで囚人がV兵器製造の強制労働に従事させられたことを記録している[10]。
これは作品が発明した設定ではない。ロケット技術と強制労働は歴史上実際に結びついていた。そのため、作中のロケットを単なる技術上・象徴上の存在としてだけ扱うと、作品が参照している生産過程の歴史を落とすことになる。
戦争が終わってもロケット技術は終わらない
ドイツ敗戦後、米国とソ連はいずれもドイツのV2技術、資料、設備、技術者を自国のロケット・ミサイル開発へ取り込んだ[11]。米国ではOperation Paperclipを通じてドイツ人科学者・技術者が移送された。ソ連もPeenemündeやNordhausenで資料・設備を取得し、ドイツ人技術者を利用してV2を再構築した[11]。
つまりナチス・ドイツのロケット技術は、1945年の敗戦とともに消滅したわけではない。国家体制が変わった後も技術、専門家、資料が別の国家へ継承されたという歴史は、『重力の虹』における戦争と戦後の連続性を理解する背景になる。
IGファルベンは実在、イミポレックスGは架空
作中には実在企業IG Farbenが登場する。IG Farbenはナチ体制と深く結びつき、アウシュヴィッツ=モノヴィッツでは合成ゴム・燃料工場のために強制収容所囚人の労働を利用した[12]。一方、ヤンフとイミポレックスGは架空である。
このように、実在する企業史と架空の化学物質が同じ物語内に配置される。そのため読者は、作品内のどこまでが史実で、どこからがピンチョンの虚構なのかを外部資料によって確認する必要が生じる。
ヘレロとナマの歴史にも現実の背景がある
1904年から1908年、ドイツ領南西アフリカ、現在のナミビアで、ドイツ植民地軍はヘレロとナマに対して殲滅戦を行った。ドイツ連邦政府はこの暴力をジェノサイドとして認めており、約10万人が暴力、渇き、収容所などで死亡したと説明している[13]。
ドイツ歴史博物館は、生き残ったヘレロが強制収容所へ収容され、数千人が強制労働と劣悪な収容条件によって死亡したことを記している[13]。『重力の虹』のシュヴァルツコマンドそのものは虚構だが、彼らが背負うドイツ植民地主義の歴史まで架空なのではない。
『重力の虹』のテーマを理解する5つのキーワード
パラノイア
『重力の虹』で重要な言葉の一つがパラノイア(paranoia)である。スロースロップの地図とロケット、ヤンフと化学企業、国家と軍、企業と戦争、植民地主義とロケットなど、作品内では多くの要素が実際に接続している。
その一方で、個々の接続から「すべてを統一する一つの意思」が存在するとまで断定できるかどうかは別問題である。刊行直後から、パラノイアは『重力の虹』批評の中心的な論点となってきた[5][14]。詳しい解釈史については、別記事「『重力の虹』はどう読まれてきたか――解釈・批評史」で扱う。
条件づけと確率
ポインツマンとロジャー・メキシコは、世界を見る二つの異なる方法を示している。ポインツマンはパヴロフ的な条件反射を重視し、目に見える現象の背後に原因を求める。一方、メキシコはV2着弾を確率分布として扱う。
スロースロップの地図は、この二つを衝突させる。地図とV2に対応があることと、その対応に一つの原因を与えられることは同じではない。この問題は、作品全体の認識構造へ広がっていく。
00000とシュヴァルツゲレート
00000は、ブリセロが関与した特殊なロケットである。一般的なV2とは異なり、内部にシュヴァルツゲレート――ドイツ語で「黒い装置」――と呼ばれるものを搭載する。スロースロップ、エンツィアン、ペクラーらの物語線は、別々の経路から00000へ近づいていく。
最終部では、本文がゴットフリート自身をシュヴァルツゲレートとして提示する。したがって、シュヴァルツゲレートを単純な機械装置としてのみ説明することはできず、作品は装置と人間の区別を安定させない。
イミポレックスG
イミポレックスGは作中の架空のプラスチックである。化学者ヤンフが開発したとされ、スロースロップの幼児期条件づけや00000の内部装置と結びつけられる。
ただし、「イミポレックスGがスロースロップの性的反応の原因だった」と作品外部から保証されるわけではない。ヤンフの実験記録、スロースロップの反応、00000の部品は接続されるが、その因果関係は作品内で完全には確定しない。
選ばれた者と見捨てられた者
『重力の虹』では、宗教的な「選ばれた者(Elect)」と「見捨てられた者/選ばれなかった者(Preterite)」という区別が繰り返し現れる。戦争を動かす者とその影響を受ける者、実験する者と実験される者、技術を管理する者とその材料にされる身体という不均衡も作品内に反復する。
批評史では、このElect/Preteriteの区別を、作品に登場する選別、制度、犠牲の構造へ広げて読む議論が行われてきた[14]。ただし、ゴットフリート、強制労働者、植民地支配を受けた人々をすべて同じ一つの意味へ還元することはできない。
タイトル「重力の虹」は何を意味するのか
最も直接的な入口は、ロケットの弾道である。1973年のGeorge Levineは、ロケットの飛行を表す放物線そのものを“gravity’s rainbow”の形として論じている[15]。
一方、Tony Tannerは題名の「虹」が『創世記』におけるノアの虹を想起させることを指摘した[15]。聖書の虹は、洪水後に神と地上の生命との間に結ばれる契約の印である。それに対して『重力の虹』では、空に描かれる曲線がV2という兵器の軌道でもある。
よって批評史では、題名について少なくともロケットの弾道と聖書的な虹への参照という複数の層が論じられてきた[15]。題名の意味は一つに固定されていない。
結末で何が確定し、何が確定しないのか
『重力の虹』を読み終えたあとに整理しにくいのは、大量の情報が与えられたにもかかわらず、すべてが一つの「真相」へまとまらないことである。ここでは、本文が確定していること、登場人物が推測していること、最後まで確定しないことを分ける。
スロースロップの地図とV2は本当に関係しているのか
確定していることは、スロースロップの性的遭遇を記した地図とV2着弾地点の間に異常な対応があるものとして作品が始まり、ポインツマンたちがそれを研究対象にしていることである。
登場人物が考えることとして、ポインツマンはその背後に条件づけという原因を求め、ヤンフの幼児実験、イミポレックスG、スロースロップの性的反応を一つの因果連鎖として結ぼうとする。
確定しないことは、本当にその因果関係が成立しているのかどうかである。さらに後半では、スロースロップが地図に記した女性そのものの確認可能性まで不安定になる。したがって「スロースロップにはV2を性的に予知する能力がある」と作品本文上の確定設定として説明することはできない。
スロースロップは最後にどうなったのか
スロースロップには通常の死亡場面がない。一方で、事件を解決して無事に帰国する場面もない。彼は第4部で徐々に物語の中心から薄れ、写真、噂、記憶、痕跡のようなものとして語られる。
本文はスロースロップが「散らされる」過程を描くにとどまり、生死を明示的に確定しない。批評史では、この終盤を主体の分解や消失と結びつけて論じる読みがある。
00001は00000と同じロケットなのか
同じではない。00000はブリセロが戦時中に発射した特殊なV2であり、ゴットフリートが搭載される。これに対して00001は、第4部でエンツィアンたちシュヴァルツコマンドが廃部品から組み立てる別のロケットである。本文は00001の完成過程を描くが、その発射や着弾までは描かない。
最後のロケットは00000なのか
本文では、過去にブリセロがゴットフリートを00000へ搭載して発射したことが開示される。その後、語りは1970年前後のロサンゼルスの映画館へ飛び、ロケットが屋根の直上へ降下する瞬間で終わる。この二つは物語構造上、強く重ねられている。
しかし、「1945年に発射された00000が物理的に時間を越えて1970年の映画館へ落ちている」と説明されるわけではない。また、ロケットが映画館へ実際に衝突した場面も存在しない。
本文が確定しているのは、00000の降下と映画館上空のロケットが物語上接続され、着弾直前の瞬間で作品が終わるところまでである。
『重力の虹』は何についての小説なのか
ここでは、刊行後の批評史を踏まえて作品全体を整理する。
『重力の虹』には、戦争、科学、企業、植民地主義、性、宗教、確率、エントロピー、映画など多数の論点がある。1970年代以降、作品はパラノイア、百科全書性、巨大な社会システムなどを中心に論じられ、その後は植民地主義、人種、ジェンダー、ホロコースト、環境などの具体的な歴史へ焦点を戻す研究も蓄積してきた[14]。
重要なのは、作品世界の接続のすべてが妄想なのではないことである。ロケット生産と強制労働は歴史上実際に結びついており、ナチス・ドイツのロケット技術は敗戦後の米ソへ継承され、IG Farbenのような企業は国家・戦争・強制労働と接続していた[10][11][12]。ドイツ植民地主義とヘレロ/ナマの歴史も作品がゼロから作り出した背景ではない[13]。
一方、批評史では、そうした多数の接続を一つの完全な「システム」へ回収できるのかという問題も繰り返し検討されてきた。Edward Mendelsonは作品を百科全書的物語として論じたが、Luc HermanとPetrus van Ewijkは後に、『重力の虹』が完全な全体性を持つという見方そのものを再検討している[14]。
そのため、『重力の虹』を単純に「巨大な陰謀を暴く小説」と固定する読みは、批評史上も繰り返し修正されてきた。作品には実在の権力関係や歴史的接続が存在する一方、それらをすべて単一の意思、単一の因果関係、単一の意味へまとめられるかどうかは確定しない。
この50年以上にわたる解釈の変化については、別記事「『重力の虹』はどう読まれてきたか――解釈・批評史」で詳しく扱う。また、『重力の虹』のように大量の人物・知識・制度・歴史・文体を抱え込む巨大長編と「メガノベル」という概念との関係については、「メガノベルとは何か」で扱う。
よくある質問
Q. 『重力の虹』はピュリッツァー賞を受賞したのですか?
A. 受賞していない。ピュリッツァー賞の公式資料では1974年はNovel/Fiction部門の授賞なしの年として記録されている[4]。小説部門の審査員団は『重力の虹』を推薦したが、評議会が採用しなかった。一方、1974年の全米図書賞小説部門はアイザック・バシェヴィス・シンガーとの共同受賞である[3]。
Q. 『重力の虹』は本当にそんなに難しいですか?
A. 難しい。人物数、突然の視点移動、科学・歴史の専門知識、ジャンル変化に加え、本文事実と登場人物の仮説を区別しにくいことが難解さの大きな要因である。
Q. ロケットは何の象徴ですか?
A. 批評史では一義的な象徴には固定されていない。ロケットは技術、軍事、企業、植民地主義、性、宗教、犠牲など複数の論点が交差する対象として論じられてきた[14][15]。
Q. なぜ性的な描写がこんなに多いのですか?
A. 作品では、スロースロップの性的反応の条件づけ、ブリセロとゴットフリートの支配関係など、性と身体の統制が主要な物語線に組み込まれている。ただし、すべての性的描写を一つの象徴や一つの機能へ還元する必要はない。
Q. 作中の巨大な陰謀「They」は本当に存在しますか?
A. 軍、企業、研究機関、諜報などの具体的な接続は作品内に存在する。しかし、それらすべてを統一的に支配する一つの秘密結社が本文上特定されるわけではない。批評史では、Theyを複数の制度や権力機構からなるシステムとして捉える読みが提示されている[14]。
Q. スロースロップは死んだのですか?
A. 死亡場面はない。彼は第4部で徐々に物語から散乱し、痕跡や噂のような形で語られる。「死亡した」「逃げ切った」のどちらも本文上の確定事項ではない。
Q. 最後のロケットはどこに落ちたのですか?
A. 着弾は描かれない。00000の過去の発射と、1970年前後の映画館上空へ降下するロケットが物語上接続され、屋根の直上にある瞬間で小説は終わる。
Q. 旧訳と新訳のどちらを読めばいいですか?
A. 旧訳は1993年国書刊行会版で、現在出版社では品切増刷未定。新訳は2014年新潮社の佐藤良明訳で、詳細な註、解説、索引を備えている[6][8]。現在新品で入手しやすいのは新潮社版である。
まとめ
『重力の虹』の出発点は、意外なほど単純である。自分の性的行動を記した地図とV2の着弾地点に奇妙な対応を持つ男が、自分が幼児期に実験されていたらしいことを知り、一発の特殊なロケット00000を追い始める。
しかし、調べれば調べるほど答えではなく関係が増えていく。ロケットは心理学、企業、戦争、強制労働、植民地主義、戦後の科学技術へつながり、主人公個人の謎だったものが巨大な歴史と制度の問題へ拡大していく。
『重力の虹』が難しいのは、何も分からないからではない。多くの情報が互いに接続しているにもかかわらず、それらをどこまで一つの因果関係、一つのシステム、一つの意味へまとめられるのかが最後まで確定しないからである。
この記事の調査について
本記事では、作品の書誌、全4部の構造、人物・組織、時系列、V2・ミッテルバウ=ドーラ・IGファルベン・戦後の技術争奪などの歴史資料、00000/シュヴァルツゲレート/イミポレックスGの関係、難解さの要因、タイトル論、日本語訳、受賞史について作成した監査済み調査資料を基礎としている。
作品については、本文上提示される出来事、登場人物の説明・仮説、外部の歴史的事実、研究者による解釈を同じ水準で扱わないことを原則とした。とくに、スロースロップの地図とV2の因果関係、イミポレックスGと条件づけの関係、スロースロップの最終的な生死、00000と映画館上空のロケットの関係、「They」を単一秘密組織とみなす説明については、本文が確定している範囲と解釈を分けている。
また、「『重力の虹』がピュリッツァー賞を受賞した」「現在の制度上の意味で正式なPulitzer finalistだった」「ボーイング勤務が特定の場面を直接生んだ」「PISCESが作中と同じ形で実在した」「米国大学生が読んだふりをする本ランキング1位」「文学賞の審査員も誰一人読了していなかった」といった説明は、現在確認できる資料からそのまま事実としては採用していない。
批評・解釈については、1973年の同時代評から現在までの批評史を別途調査している。本記事では一般読者の作品理解に必要な範囲に限定し、研究者の解釈を用いる場合はその旨を本文中で区別した。詳細は別記事「『重力の虹』はどう読まれてきたか――解釈・批評史」で扱う。
注
1. CiNii Books「Gravity’s rainbow」。First published in the United States of America by the Viking Press, 1973、760頁という書誌情報を確認できる。
2. MacArthur Foundation「Thomas Pynchon」。米海軍勤務(1955–1957)、Cornell University卒業(1959)、Boeing Aircraft Companyでtechnical writerとして勤務(1960–1962)したことを記載。国書刊行会『重力の虹 1』の著者紹介も参照。
3. National Book Foundation「National Book Awards 1974」。『Gravity’s Rainbow』とIsaac Bashevis Singer『A Crown of Feathers and Other Stories』がFiction部門の受賞作として記録されている。
4. The Pulitzer Prizes「YEARS OF NO AWARDS」。Novel/Fiction部門の授賞なしの年として1974年を明記。審査員団による推薦と評議会による不採用についてはPeter Kihss, “Pulitzer Jurors Dismayed on Pynchon,” The New York Times, May 8, 1974, p.38を参照。
5. Richard Poirier, “Rocket Power,” Saturday Review, March 3, 1973。ThomasPynchon.com再録を参照。Richard Locke, “One of the Longest, Most Difficult, Most Ambitious Novels in Years,” The New York Times Book Review, March 11, 1973。New York Times再録ページおよび再録資料を参照。
6. 新潮社『重力の虹(上)』および「トマス・ピンチョン全小説」。2014年9月30日刊、上下各752頁、各5,170円。公式紹介文の「『卑猥』『通読不能』と審査を拒否した超危険作」、註・解説・索引の記載も同ページによる。
7. Madeline K. B. Ross, “You’ve Read ‘Gravity’s Rainbow’? Bullshit,” The Harvard Crimson, April 6, 2007。Pierre Bayardの『How to Talk About Books You Haven’t Read』を論じた記事。「読んだふりをする難物」という後世のイメージの一例として参照し、ランキング資料としては使用していない。
8. 国書刊行会『重力の虹 1』。旧訳は越川芳明・佐伯泰樹・植野達郎・幡山秀明訳、1993年刊。出版社表示は「品切増刷未定」。新訳については新潮社「永遠の虹――翻訳を終えて」を参照。インタビュー導入では翻訳開始から7年とされ、佐藤良明は実質的な作業量を「千日、一万時間」と述べている。
9. The National Archives「British Response to V1 and V2」。V2は音速で飛行し「made no warning noise before impact」と説明されている。V2の開発史についてはNASAのVanguard: A Historyも参照。
10. United States Holocaust Memorial Museum「Concentration Camps, 1942–1945」。Dora-Mittelbauにおいて囚人がV兵器製造を強制されたことを記録している。
11. 米国側についてはNASA Vanguard: A Historyを参照。戦後に捕獲したV2とドイツ人ロケット専門家を米国へ移した経緯を説明している。ソ連側についてはSmithsonian National Air and Space Museum “V-2 Missile”を参照。Peenemünde、Nordhausenの資料・設備の取得、ドイツ人技術者の利用、V2再構築について記録している。
12. United States Holocaust Memorial Museum「Auschwitz」。IG Farbenの合成ゴム・燃料工場とAuschwitz-Monowitzにおける強制労働について参照。IG Farbenの成立とナチ体制との関係については「Bayer」も参照。
13. ドイツ連邦政府「Commemoration of the genocide of the Herero and Nama」。1904~1908年の殲滅戦、収容所、約10万人の犠牲、ジェノサイド認定を参照。強制労働についてはDeutsches Historisches Museum 「Herero-Krieg 1904」および「Unterspülter Bahndamm」を参照。
14. Edward Mendelson, “Encyclopedic Narrative: From Dante to Pynchon,” MLN 91.6 (1976), pp.1267–1275。Tom LeClair, The Art of Excess: Mastery in Contemporary American Fiction, University of Illinois Press, 1989(WorldCat書誌)。Luc Herman & Petrus van Ewijk, “Gravity’s Encyclopedia Revisited: The Illusion of a Totalizing System in Gravity’s Rainbow,” English Studies 90.2 (2009), pp.167–179。百科全書性、システム、全体化をめぐる批評史の整理に使用。
15. George Levine, “V-2,” Partisan Review 40.3 (1973)。Boston Universityによる誌面公開版では、ロケットの放物線を“the shape of gravity’s rainbow itself”と論じている。Tony Tanner, “Gravity’s Rainbow,” in Thomas Pynchon, Methuen, 1982, pp.74–95。Routledge書誌およびeNotes再録を参照。