メガノベルとはなにか|巨大な小説はなぜ世界のすべてを詰め込もうとするのか

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『白鯨』『ユリシーズ』『重力の虹』『JR』『Infinite Jest』『2666』。文学史には、ときどき一冊の本とは思えないほど巨大な小説が現れる。長いだけではない。科学、宗教、政治、歴史、企業、映画、広告、音楽、性、家族、戦争、都市、専門用語、ジョークまで、ほとんど世界そのものを本の中へ押し込もうとする。

こうした作品を論じるときに使われてきた言葉の一つが、メガノベル(mega-novel/Mega-Novel/メガノヴェル)である。ただし、最初に重要な注意がある。「メガノベル」は、文学研究全体で定義が統一された一つの正式なジャンル名ではない。

フレデリック・R・カールのメガノベル、エドワード・メンデルソンの百科全書的物語(encyclopedic narrative)、トム・ルクレールのシステム小説(systems novel)、ステファノ・エルコリーノのマキシマリスト小説(maximalist novel)、デヴィッド・レッツラーのメガノベル論は、互いに重なってはいるが同じ概念ではない[1]。

そこで本記事では、これらの理論を比較するための便宜的な総称として「メガノベル」を用いる。簡単にいえば、メガノベルとは、ただ長いだけでなく、巨大な規模のなかに膨大な知識、多数の人物や声、社会の仕組み、ジャンルや文体の混成、情報の過剰などを抱え込み、世界の全体像を作ろうとする小説である。しかも多くの場合、その試みは「世界のすべてを一冊に収めることなどできない」という限界まで作品の一部にしている。

本記事でいう「世界のすべて」は、もちろん文字どおりではない。それは巨大な小説に繰り返し現れる全体化への志向を指している。なお、本記事で扱う文学上の「メガノベル」は、同名のウェブ小説サービス「MegaNovel」とは関係がない。


目次


メガノベルとは何か

メガノベルには、「何ページ以上ならメガノベル」という共通の数値基準はない。

カールは戦後アメリカ文学の巨大形式としてメガノベルを論じた。レッツラーは後に、巨大な百科全書的小説を情報過剰と読者の注意という観点からメガノベルとして捉え直した。一方、メンデルソンの百科全書的物語は文化の知識体系、ルクレールのシステム小説は社会・経済・情報などの相互依存するシステム、エルコリーノのマキシマリスト小説は長さ、多声性、百科全書性、物語的過剰など複数の特徴の組み合わせを中心にする[1]。

したがって、「メガノベル」という語を厳密に使おうとすると、まず誰の定義を使っているのかを確認する必要がある。

本記事では比較のため、メガノベルを「物理的または構造的な巨大さが、百科全書的知識、社会システム、多声性・ジャンル混交、情報過剰と読者の注意負荷などと機能的に結びついている小説」と整理する。これは特定の一研究者による公式定義ではなく、複数の理論を一般読者向けに比較するための本記事上の整理である。

ここで重要なのは「機能的に結びついている」という部分である。巨大であること自体が目的なのではない。巨大さによって、普通の長篇では扱いにくい複数の世界を同時に置くことができる。


なぜ「長い小説」とメガノベルは違うのか

1000ページある小説はメガノベルなのか。答えは、ページ数だけでは判断できないである。

長大な家族年代記もある。複数世代を描く大河小説もある。長期間続く冒険シリーズもある。一本の物語を非常に細かく描けば、それだけで数千ページになることもある。しかし、それらが自動的に百科全書的小説やシステム小説になるわけではない。

逆に、ルクレール以後のシステム小説研究では、トゥーン・スタースがアンドリュー・クルーミーの約164ページの『Pfitz』をシステム小説として論じている。ニック・リーヴィーのマキシマリズム論でも、最大主義的な効果は必ずしも巨大なページ数だけに依存しない[2]。

違いは、その長さが何をしているかにある。

長い小説メガノベル的な巨大形式
長さそのものが主要な特徴になることがある長さが知識・制度・声・形式と結びつく
一本の物語を長く展開する場合もある複数の物語・知識・時間層が共存する
社会全体をモデル化するとは限らない個人と社会システムの接続を描くことが多い
情報の重要度を比較的判別しやすい場合もある何が重要なのか分からない情報過剰が起こりやすい
読者が一つの筋を追える場合もある読者自身が全体像を組み立てる必要がある

つまり、ページ数は分類を決める唯一の原理ではない。巨大な小説が巨大なのは、巨大でなければ扱いにくい構造を抱えている場合があるからだ、と考える方がメガノベルを理解しやすい。


巨大な小説はなぜ世界のすべてを詰め込もうとするのか

では、なぜ小説はそこまで巨大になるのか。研究史を横断すると、少なくとも四つの方向が見えてくる。

世界の知識を集めるため

メンデルソンが1976年に提示した百科全書的物語では、小説は単に物語を語るだけでなく、科学、宗教、政治、職業、芸術、社会階層など、その文化が持つ知識と信念の広い範囲を抱え込む[3]。

『白鯨』には捕鯨と鯨学がある。『ユリシーズ』には都市生活、新聞、広告、医学、宗教、神話、文体史がある。『重力の虹』にはロケット工学、統計学、心理学、化学、企業、映画、音楽、植民地主義がある。百科全書的小説は、物語の横に知識を置くのではなく、知識そのものを物語形式へ組み込んでいく。

社会の仕組みを見せるため

巨大な社会では、一人の悪人だけを描いても世界の動きを説明できない。企業、国家、市場、軍、メディア、学校、科学、通信など、複数の制度が互いに作用している。

ルクレールのシステム小説論は、こうした相互依存を小説の形式そのものによって可視化しようとする[4]。たとえば『JR』では、会話や電話や金融取引が連鎖し、一人の主人公が世界を完全に支配しているわけではないのに、巨大な資本の動きが生まれる。

一つの声では世界を描けないため

巨大な作品には、多数の人物、語り手、文体、専門語、広告、歌、俗語、手紙、記事、脚注などが入りやすい。一人の語り手が「これが世界だ」と説明するのではなく、互いに異なる声を同じ本へ置く。

そのためメガノベルでは、多声性が単なる登場人物の多さを超え、世界を一つの視点へ還元できないことを示す形式として働く場合がある。

「全部を描けない」という限界まで描くため

情報を増やせば、世界を完全に説明できるようになるとは限らない。むしろ情報が増えるほど、「まだ入っていないものがある」「この分類から外れるものは何か」「誰の視点が『世界全体』と呼ばれているのか」という問題が現れる。

ペトルス・ファン・エイクは百科全書を閉じた総覧ではなく開かれたネットワークとして捉え直し、近年のキロン・ウォードも全体性(totality)を完成された全体ではなく、世界の内部から自分の位置を確かめようとする暫定的な試みとして再考している[3]。

だから巨大な小説は世界のすべてを詰め込もうとする。しかし当然、詰め込みきれない。全体を作ろうとすることと、完全な全体には到達できないことの緊張が、巨大形式の重要な問題になる。


メガノベルに見られる5つの特徴

各研究者の定義と重みづけは異なり、以下の五項目をすべて満たすことがメガノベルの必要条件なのではない。そのうえで一般読者向けに整理すると、巨大形式をめぐる研究には次の五つの特徴が繰り返し現れる。

1. 巨大な規模

多数の人物、複数都市、長い歴史、並行する物語など、物理的または構造的に大きい。ただし、共通する最低ページ数はない。

2. 百科全書的な知識

歴史、科学、宗教、経済、法律、ポップカルチャーなど、本来なら別々の専門領域に属する知識が一冊へ入ってくる。作品によっては、異なる知識体系の衝突そのものが物語の一部になる。

3. 社会システムの可視化

個人の人生が、企業、国家、市場、技術、戦争、植民地主義、メディアなどと接続される。「誰が悪いのか」という問いだけでなく、「どういう仕組みがこの結果を生み出しているのか」という問いが重要になる。

4. 多声性・ジャンル混交・形式的過剰

普通の地の文だけでは終わらない。歌、広告、専門文書、手紙、脚注、映画、数式、リスト、夢、冗談、別ジャンルの文章などが割り込んでくる。

エルコリーノのマキシマリスト小説論では、長さ、百科全書的モード、不協和な多声性、物語世界の過剰、完全性、全知的語り、偏執的想像力、複数メディア/記号の混成、倫理的関与、ハイブリッド・リアリズムという十の特徴が体系的に整理されている[5]。

5. 読者の注意を試す情報過剰

そして、全部が重要そうに見える。これがレッツラーのメガノベル論で重要になる。

一見どうでもよさそうな脱線、脚注、リスト、専門知識、ジョークが大量にあり、読者は「どこへ強く注意を向けるべきか」を判断しなければならない。巨大さは、内容だけでなく読者の注意まで作品形式の一部にする。


メガノベルの代表作

ここでいう「代表作」は作品価値の順位ではない。メガノベルやその近接理論を説明するうえで、原コーパスや後続研究で繰り返し扱われている作品を中心に挙げている[6]。

作品主な関係巨大さの特徴
ハーマン・メルヴィル『白鯨』(1851)百科全書的物語/近代叙事詩捕鯨、宗教、自然史、政治、演劇
ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』(1922)百科全書的物語/近代叙事詩一日の都市生活を神話・広告・文体史へ拡張
トマス・ピンチョン『重力の虹』(1973)百科全書的物語/システム小説/メガノベル/マキシマリスト小説科学、軍、企業、植民地主義、映画、歌、パラノイア
ウィリアム・ギャディス『JR』(1975)システム小説/メガノベル会話、通信、教育、金融、企業
デヴィッド・フォスター・ウォレス『Infinite Jest』(1996)メガノベル/マキシマリスト小説脚注、断片的時間、娯楽、依存、注意
ドン・デリーロ『アンダーワールド』(1997)システム小説/メガノベル/マキシマリスト小説冷戦、核、廃棄物、野球、メディア
ゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』(2000)マキシマリスト小説移民、帝国史、宗教、遺伝学、多声性
ロベルト・ボラーニョ『2666』(2004)マキシマリスト小説/メガノベル五部構成、越境、大量暴力、未完性

このリストを見ると、メガノベルが一つの文体ではないことも分かる。『JR』と『2666』はまったく違う。『白鯨』と『Infinite Jest』も違う。共通項を一つの文体へ還元するのではなく、巨大さが知識、制度、声、形式、読者の注意などとどう結びつくかを見る必要がある。


なぜ『重力の虹』は代表例なのか

『重力の虹』は、メガノベルを考えるうえで特に便利な作品である。理由は、長くて難しいからではない。複数の理論が同じ作品へ交差しているからだ。

メンデルソンはピンチョンを百科全書的物語の系譜へ置き、『重力の虹』そのものについて「Gravity’s Encyclopedia」を書いた。ルクレールはシステム小説の主要例として扱う。カールのメガノベル論にもピンチョンは深く関わる。エルコリーノは『重力の虹』から『2666』までの七作品をマキシマリスト小説の分析対象とし、レッツラーのメガノベル論でも『重力の虹』は主要作品の一つとして扱われる[7]。

百科全書として見ると、ロケット工学、統計、心理学、化学、映画、音楽、企業、植民地主義などが重要になる。システム小説として見ると、軍、企業、科学、情報、性、国家が一つの黒幕なしに接続する構造が見える。マキシマリスト小説として見ると、長さ、多声性、過剰、パラノイア、歌や数式などの混成が重要になる。レッツラーのメガノベル論から見ると、読者が大量の情報の中から何へ注意を払うのかという問題が前景化する。

その意味で『重力の虹』は、巨大形式をめぐる複数の理論を比較しやすい交差点である。ただし、『重力の虹』が唯一の基準なのではない。『JR』は声と資本のネットワークを別の方法で作り、『ホワイト・ティース』は移民・人種・家族を多声的に広げ、『2666』は国境を越える暴力と未完性によって全体化の別の形を示す。

『重力の虹』のあらすじ・人物・難解さについては「『重力の虹』とは? なぜ『読めない』と言われるのか」、主要解釈については「『重力の虹』はどのように読みうるか|主要な解釈と50年の批評史」で詳しく扱っている。


日本のメガノベル――どの作品が候補になるのか

では、日本文学にメガノベルはあるのだろうか。ここでは慎重な区別が必要である。

「メガノベル」は英語圏を中心に形成された複数の理論を本記事で便宜的にまとめた言葉であり、日本文学について確立した公式リストが存在するわけではない。そのため、以下では、研究・作者・出版情報の中で実際にメガノベルと結びつけられた例と、本記事の比較基準を日本の巨大作品へ適用した場合の候補を分ける。

既存の用例や研究によって直接結びつけられる作品

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

レッツラーはメガノベルをアメリカ戦後文学だけに限定せず、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』をメガノベルの例として自らの研究に含めている[8]。

戦争記憶、家族、地下空間、複数の語りなどが広い物語構造のなかで接続する作品であり、日本語で書かれた小説のなかでも英語圏のメガノベル研究に実際に登場する例である。

古川日出男『聖家族』

『聖家族』については「メガノベル」という言葉が実際に用いられている。古川日出男の公式サイトに掲載された評伝は、2008年の作品を明示的に「メガノベル『聖家族』」と呼んでいる[9]。

東北を大きな舞台として、家族の系譜、歴史、戦争、土地、移動、複数の時間層を長大な構造へ組み込んだ作品であり、日本語圏で「メガノベル」という呼称が具体的な作品名と結びついた例である。

古川日出男『アラビアの夜の種族』

古川自身は、2020年のインタビューで『アラビアの夜の種族』と『聖家族』を自らの「メガノベル」の系譜に位置づけている[9]。

『アラビアの夜の種族』は、ナポレオン侵攻下のカイロをめぐる物語のなかに、作中作、偽書、歴史、物語そのものをめぐる複雑な構造を持つ。日本語における「メガノベル」は、英語圏のカールやレッツラーの定義を単純に翻訳しただけではなく、日本の作家自身による巨大形式の自己記述としても使われている。

本記事の基準から検討できる候補

以下の作品については、「既存研究がメガノベルと認定した」という意味ではない。本記事で整理した巨大規模、百科全書性、システム、多声性・形式的過剰などの観点から比較する候補である。

大西巨人『神聖喜劇』

『神聖喜劇』は全五巻、原稿用紙約4700枚に及ぶ巨大作品である[10]。しかし候補に挙げる理由は長さだけではない。

軍隊という制度のなかで、規則、階級、法、言語、記憶、戦争が個人の行動と結びついていく。そのため本記事の比較基準では、制度と言語の関係を長大な規模で扱う作品として、システム小説と比較できる候補に位置づけられる。

小島信夫『別れる理由』

『別れる理由』は1968年から1981年まで『群像』で連載され、1982年に全三巻で刊行された大長篇である[10]。

家庭や男女関係から始まった物語が、幻想、神話、作者自身、現実と虚構の境界へ広がっていく。そのため本記事の比較基準では、巨大な規模と自己反省的な形式が結びつく作品を考えるための境界的な候補として扱う。

MMM『魚の夢』

『魚の夢』は、本記事で整理したメガノベルの特徴を強く備えた現代日本語作品である。著者公式サイトでは約130万字とされ、紙版3冊は販売書誌上合計2,024ページに達する。物理的な巨大さだけでなく、文学、哲学、性愛、宗教、精神医学、政治、社会思想など多数の領域を取り込み、物語、対話劇、論説、日記、夢、作中文書、メタフィクションなど複数の形式を混在させる。

とりわけ特徴的なのは、性愛、愛、正義、自己を中心として異質な思想や知識が互いに接続し、世界を一つの理論・物語へまとめようとする試み自体が作品内部で膨張・分裂していく点である。また、冗長な長広舌や大量の思想的脱線によって、読者に強い注意負荷を要求する点でもレッツラーのメガノベル論と比較できる。

既存の文学研究で『魚の夢』をメガノベルとして扱った例は今回確認していない。そのためこれは本記事による批評的分類であるが、作品本文を本記事の比較基準に照らすなら、『魚の夢』は日本語文学におけるメガノベルの極端な一例とみなすことができる。『魚の夢』の概要は「『魚の夢』とは?」に、詳細な検討は「『魚の夢』はメガノベルなのか?」にまとめた。

日本文学に当てはめると見えてくること

作品メガノベルとの関係
『ねじまき鳥クロニクル』レッツラーのメガノベル研究に例として含まれる
『聖家族』日本語で実際に「メガノベル」と呼ばれる
『アラビアの夜の種族』作者自身がメガノベルの系譜に位置づける
『神聖喜劇』本記事基準による制度・システム型の比較候補
『別れる理由』本記事基準による形式的巨大性の比較候補
『魚の夢』本記事基準による巨大規模・総合小説型の比較候補

この並びからも、「日本のメガノベル」を一種類の形式へ固定することは難しい。巨大な軍隊小説もあれば、物語そのものの境界が揺らぐ作品もあり、歴史幻想もあり、複数の思想的・社会的主題を長大な構造へ入れる作品もある。重要なのは、何文字あるかだけではなく、その巨大さが作品の中で何をしているのかである。


「全部理解しなければいけない」のか――不要情報・冗長部分と読者の注意

メガノベルを前にすると、読者は「この登場人物を覚えておかないといけないのか」「この三ページの専門知識は伏線なのか」「この歌にも意味があるのか」「この脚注を全部理解しなければ先へ進めないのか」と迷うことになる。

デヴィッド・レッツラーは、この問題を**不要情報・冗長部分(cruft)**という概念から論じた。cruftはコンピュータ分野などでも使われる語で、不要物、余計なもの、蓄積したがらくたのような意味を持つ。レッツラーは巨大な百科全書的小説に含まれる、一見すると無用・脱線的・冗長に見える情報へこの語を適用した[12]。

重要なのは、「cruft=意味のない文章」という意味ではないことである。ある情報は実際に中心構造との関係が弱いかもしれない。しかし別の情報は、最初は雑音に見えて後から重要になる。読者には、それを初読の時点では完全に判定できない。

だからメガノベルは、「すべてを同じ強度で読む」という読書法を困難にする。レッツラーが論じるのは、すべてへ最大限の注意を払い続けるのではなく、集中して読む、流し読む、ときには読み飛ばすといった注意の強度を調整することである[12]。

これは「適当に読めばいい」という意味ではない。むしろ、何に注意を向けるかを判断すること自体が読書の一部になるということである。

そのためメガノベルを読んで、「全部覚えられなかった」「全部理解できなかった」となっても、それだけで読書が失敗したとは限らない。巨大な情報を完全に保持できないという経験そのものが、作品の形式と関係している場合がある。


百科全書的小説・システム小説・マキシマリスト小説との違い

巨大な小説を調べると、似た言葉が大量に出てくる。しかし、すべて同じ意味ではない。

概念主な研究者何を見る概念か
百科全書的物語エドワード・メンデルソン文化の知識・信念・言説を広く収容する
システム小説トム・ルクレールほか制度、情報、資本、技術などの相互作用
メガノベルフレデリック・R・カール戦後アメリカの巨大で開放的・逆説的な形式
マキシマリスト小説ステファノ・エルコリーノ十の特徴が体系的に共存する巨大形式
メガノベル/cruft論デヴィッド・レッツラー情報過剰と読者の注意
本記事の「メガノベル」本記事上の整理上記の近接概念を比較するための便宜的総称

百科全書的小説で中心にあるのは知識である。作品が文化の広い知識領域を収集し、その分類や衝突まで描く。したがって、巨大でなくても百科全書的な形式は理論上ありうるし、巨大でも百科全書的でない作品もある。

システム小説で中心にあるのは関係である。企業、技術、制度、環境、情報などがどのように循環し、個人を超えた大きなパターンを作るかを見る。したがって、必ずしも大冊である必要はない。

エルコリーノはマキシマリスト小説をより限定的な比較文学上のジャンルとして定義する。長さだけではなく、百科全書的モード、不協和な多声性、物語世界の過剰、完全性、全知的語り、偏執的想像力、複数メディア/記号の混成、倫理的関与、ハイブリッド・リアリズムなど十の特徴が体系的に共存する作品群である[5]。したがって、「マキシマリスト小説=ものすごく長い小説」ではない。

最も厄介なのが「メガノベル」である。カールとレッツラーでは対象も関心も違う。そのため本記事では、「メガノベルという一つの確定ジャンルの下に他概念がある」とは考えない。むしろ、巨大な小説を考えるときに、百科全書性、システム、最大主義、注意といった複数の理論が交差すると考える。


「メガノベル」という言葉はどこから来たのか

巨大で百科全書的な小説そのものは、もちろん1980年代に突然誕生したわけではない。『白鯨』や『ユリシーズ』はそれ以前から存在する。概念史として重要なのは、巨大形式を何という言葉で、何を中心に説明したかである。

1976年――メンデルソンと百科全書的物語

エドワード・メンデルソンは1976年、「Encyclopedic Narrative: From Dante to Pynchon」を発表し、ダンテ、ラブレー、セルバンテス、ゲーテ、メルヴィル、ジョイス、ピンチョンを一つの百科全書的系譜へ置いた[3]。同年、『重力の虹』そのものについて「Gravity’s Encyclopedia」も発表している。

1985年――カールとメガノベル

フレデリック・R・カールは1985年、「American Fictions: The Mega-Novel」を発表した。カールの1983年の著書に“mega-novels”という先行使用があるとの指摘も存在するが、監査済み調査では、その根拠とされた二次資料の該当箇所もカールの1983年書の該当頁も直接確認できなかった。

そのため本記事では、1985年を、今回確認できた最初の確実な専論的体系化として扱う[13]。カールを「メガノベルという語の発明者」とは断定しない。

1987~89年――ルクレールとシステム小説

トム・ルクレールは1987年の『In the Loop』、1989年の『The Art of Excess』で、情報、経済、政治、技術などのシステムを小説がどのようにモデル化するかを論じた[4]。

巨大形式を「何でも入った本」として見るだけでなく、相互依存する社会システムのモデルとして考える方向である。

2012~14年――エルコリーノとマキシマリスト小説

ステファノ・エルコリーノは2012年の論文、2014年の英語単著『The Maximalist Novel』で、『重力の虹』から『2666』までの七作品を比較し、マキシマリスト小説を十の特徴から体系化した[5]。

エルコリーノは、この形式が1970年代初頭のアメリカで形成され、その後ヨーロッパやラテンアメリカへ展開したと整理している。したがって、『重力の虹』を「マキシマリスト小説という形式の歴史そのものの起点」と断定するのではなく、エルコリーノの七作品の分析で最も早い年代に位置する中核例として扱うのが正確である。

2012~17年――レッツラーと読者の注意

デヴィッド・レッツラーは2012年の『Infinite Jest』論を経て、2014年の博士論文、2017年の『The Cruft of Fiction』でメガノベルを認知・注意の問題から再理論化した[12]。

ここでは「巨大な本には何が入っているのか」だけでなく、巨大な本を人間はどのように読むのかが中心的な問いになる。

こうして見ると、「メガノベル」という一語の下には、少なくとも半世紀にわたる複数の問題設定が重なっている。


日本語で「メガノベル」はどう使われてきたのか

日本語の「メガノベル/メガノヴェル」は、カールのメガノベルの厳密な訳語としてだけ使われてきたわけではない。確認できる用例にもかなり幅がある[14]。

1997年、新潮社のジョン・アップダイク『さようならウサギ』紹介では、Rabbit四部作が「超大型小説“メガノヴェル”」と表現された。ここでは単独の実験的大作というより、長期間にわたる巨大連作という意味が強い。

2016年、古川日出男は自ら訳した『平家物語』を「ポリフォニックな中世のメガノベル」と表現した。これは巨大さと多声性を強調する用法である。

2019年には神戸大学文学部芸術学研究室の研究会要旨で「『偉大なるアメリカ小説』型メガノヴェル」という表現が使われている。さらに古川日出男『聖家族』は「メガノベル」と紹介され、古川自身も『アラビアの夜の種族』『聖家族』を自らのメガノベルの系譜に位置づけている。

つまり日本語では、長期連作、巨大作品、多声的作品、世界や国家を大きな規模で扱う作品などを横断して「メガノベル」という語が使われてきた。今回確認した資料の範囲では、「メガノベル」と「メガノヴェル」に確立した意味上の使い分けは確認できなかった。

そのため、日本語でこの語を見たときにも、誰が、どういう意味で使っているのかを確認する必要がある。


メガノベルという考え方への批判

巨大な小説には独特の魅力がある。しかし、巨大だから偉いわけではない。メガノベルをめぐる研究史では、その野心そのものへの批判も行われてきた。

「世界全体」を誰が語るのか

メンデルソンが1976年に挙げた七人はすべて男性であり、ルクレールの主要例もアーシュラ・K・ル=グウィンを除けば白人男性作家が中心だった。

カールについても、1985年当時の『ワシントン・ポスト』の記事は、カール自身の表現として、メガノベルが主として「白人プロテスタント男性」によって書かれ、彼らがアメリカ全体を捉えようとするという見方を紹介している[15]。ただし、これは同時代記事によって確認できるカールの発言であり、カールの1985年論文全文から直接引用した定式として扱うべきではない。

ジェイムズ・ザイグラーらの後代研究は、「巨大で野心的な小説」という正典そのものが誰を中心に作られてきたのかを問い直している[15]。したがって、「世界全体を描く小説」という表現には、誰の世界が「全体」とされているのかという問いがついてくる。

全体を見る視点は支配の視点にもなりうる

世界を上から眺め、「国家はこう動いている」「資本はこう動いている」「人間はこのシステムの一部である」と説明する視点は強力である。しかし同じ視点は、帝国、軍、企業、市場などが世界を計測・分類する視点にも似ている。

フランコ・モレッティは近代叙事詩をヨーロッパの世界支配と結びつけ、ポール・クロスウェイトは現代の百科全書的・システム型小説と金融市場の包括的な視線との関係を論じている[15]。したがって、全体性それ自体を自動的に解放的な価値として扱うことはできない。

大きいことと良いことは違う

1000ページ読ませれば、その作品が深いことになるわけではない。過剰な情報は作品上の機能を持つ場合もあれば、そうではない場合もある。

ウェス・チャップマンは『重力の虹』について、反権力的な内容と巨大な作者性の緊張を「男性的巨大主義」の問題として論じた[15]。

分類が循環する危険

「この七冊はマキシマリスト小説だ」と作品を選び、「この七冊に共通する特徴はこれだ」と定義した場合、その特徴を持つから七冊が同じジャンルだという循環が起こる危険がある。

N・キャサリン・ヘイルズはエルコリーノの分類にこうした循環性の危険を指摘しつつ、その形式分析を評価している。デヴィッド・カーニックも、七作品という小さな標本、北米への偏り、作品間の規模差などを問題にした[15]。

したがって、メガノベルは作品価値を認定する勲章ではない。巨大形式を比較するための道具として使う方が適している。


メガノベルとは何なのか

メガノベルの巨大さは、単なるページ数ではない。人間一人の物語だけでは捉えきれないものを、小説の形式へ入れようとした結果として巨大になる。

科学と宗教、個人と企業、家族と国家、身体と歴史、戦争と商品、映画と政治、地方と世界。本来なら別々に語られるものを、一冊の中で接続する。だから物語は膨張する。人物が増える。時間が広がる。専門知識が入り込む。文体が変わる。脱線が増える。読者はすべてを保持できなくなる。

しかし、その把握不能は必ずしも失敗ではない。世界そのものが、一人の人間の頭の中へ完全には入らないからである。

百科全書的小説は世界の知識を集めようとする。システム小説は世界の関係をモデル化しようとする。マキシマリスト小説は形式的過剰そのものを組織する。レッツラーのメガノベル論は、その情報過剰を読む人間の注意まで問題にする。

そして多くの巨大作品では、「世界の全体像を見たい。しかし、世界の全体像を完成させることはできない」という緊張が生じる。

メガノベルは、その二つのあいだに存在する。巨大な小説が「世界のすべて」を詰め込もうとするのは、世界を完全に所有できるからではない。所有できないほど巨大な世界へ、それでも小説という形式から近づこうとするためである。


よくある質問

Q. メガノベルは何ページ以上ですか?

A. 共通の数値基準は確認されていない。1000ページ以上などの閾値はない。重要なのは長さが百科全書性、社会システム、多声性、情報過剰などとどう結びついているかである。

Q. 長い小説ならメガノベルですか?

A. そうとは限らない。長い家族年代記やシリーズ作品でも、巨大さが知識・制度・形式などと結びつかなければ、本記事でいうメガノベルとは区別される。

Q. 大河小説との違いは何ですか?

A. 大河小説は家族、集団、社会などを長期間・複数世代にわたって描く形式を指すことが多い。メガノベル的形式では、長い時間だけでなく、異質な知識、複数制度、多声性、形式的過剰などが重視される場合がある。

Q. 百科全書的小説とメガノベルは同じですか?

A. 同じではない。百科全書的小説では知識や文化の編成が中心になる。巨大なメガノベルには百科全書的な作品が多いが、システム小説やマキシマリスト小説など別の理論的特徴もある。

Q. マキシマリスト小説とは何ですか?

A. ステファノ・エルコリーノが体系化した比較文学上の概念で、長さ、百科全書性、多声性、物語世界の過剰、偏執的想像力、複数メディア/記号の混成、倫理的関与、ハイブリッド・リアリズムなど十の特徴が体系的に共存する作品群を指す。

Q. 『重力の虹』はメガノベルですか?

A. カール、メンデルソン、ルクレール、エルコリーノ、レッツラーの近接する複数の理論が交差する中心的な作品の一つであり、メガノベル的巨大形式を説明する代表例として扱うことができる。

Q. 日本にもメガノベルはありますか?

A. 日本語作品にも、実際に「メガノベル」と呼ばれた作品や、英語圏のメガノベル研究に例として含まれる作品が確認できる。ただし、「日本のメガノベル」について確立した公式リストが存在するわけではない。『聖家族』『アラビアの夜の種族』『ねじまき鳥クロニクル』などには直接的な根拠があり、『神聖喜劇』『別れる理由』『魚の夢』などは本記事の比較基準から検討する候補として挙げている。

Q. メガノベルは全部理解しないと読めませんか?

A. 完全理解を前提にする必要はない。レッツラーは巨大作品について、すべてを同じ強度で読むのではなく、集中して読む、流し読む、ときには読み飛ばすといった注意の調整を論じている。

Q. 「MegaNovel」というアプリとは関係がありますか?

A. 関係ない。本記事で扱うのは文学批評・文学研究におけるメガノベルと、その近接概念である。


この記事の調査について

本記事は、フレデリック・R・カール、エドワード・メンデルソン、トム・ルクレール、ステファノ・エルコリーノ、デヴィッド・レッツラーを中心に、1970年代から2025年までの巨大・百科全書的小説をめぐる研究史を調査した監査済み資料を基礎に構成した。

調査では、メガノベル、百科全書的物語、システム小説、マキシマリスト小説、近代叙事詩、全体性などを同義語として扱わず、それぞれの提唱者、コーパス、中心問題を区別した。

また、本記事の五つの特徴および「メガノベル」を複数理論の便宜的な総称として用いる方法は、既存の一人の研究者がそのまま提示した定義ではない。カールとレッツラーによる実在するメガノベル論、および近接する百科全書的小説・システム小説・マキシマリスト小説の研究を比較するために、本記事上で整理したものである。

日本語作品については、監査済み基礎資料に含まれる『ねじまき鳥クロニクル』および『平家物語』『さようならウサギ』などの日本語用例に加え、『聖家族』『アラビアの夜の種族』『神聖喜劇』『別れる理由』『魚の夢』について、本記事作成時に別途公開資料を確認して補足した。既存資料で実際にメガノベルと結びつけられた作品と、本記事の比較基準から新たに検討する候補は区別している。


注・参考文献

1. Frederick R. Karl, “American Fictions: The Mega-Novel,” Conjunctions 7 (1985), pp.248–260;Karl, American Fictions: 1980–2000: Whose America Is It Anyway?, Xlibris, 2001;Edward Mendelson, “Encyclopedic Narrative: From Dante to Pynchon,” MLN 91.6 (1976), pp.1267–1275;Tom LeClair, In the Loop: Don DeLillo and the Systems Novel, University of Illinois Press, 1987;Stefano Ercolino, The Maximalist Novel: From Thomas Pynchon’s Gravity’s Rainbow to Roberto Bolaño’s 2666, Bloomsbury Academic, 2014;David Letzler, The Cruft of Fiction: Mega-Novels and the Science of Paying Attention, University of Nebraska Press, 2017。

2. Toon Staes, “Narrative Complexity and the Case of Pfitz: An Update for the ‘Systems Novel,’” Interlitteraria 26.1 (2021), pp.295–308;Nick Levey, Maximalism in Contemporary American Literature: The Uses of Detail, Routledge, 2017。

3. Edward Mendelson, “Encyclopedic Narrative: From Dante to Pynchon,” MLN 91.6 (1976), pp.1267–1275;Petrus van Ewijk, “Encyclopedia, Network, Hypertext, Database,” Genre 44.2 (2011), pp.205–222;Kiron Ward, Encyclopaedism and Totality in Contemporary Fiction, Bloomsbury Academic, 2025。

4. Tom LeClair, In the Loop: Don DeLillo and the Systems Novel, University of Illinois Press, 1987;LeClair, The Art of Excess: Mastery in Contemporary American Fiction, University of Illinois Press, 1989;LeClair, “The Prodigious Fiction of Richard Powers, William Vollmann, and David Foster Wallace,” Critique 38.1 (1996), pp.12–37。

5. Stefano Ercolino, “The Maximalist Novel,” Comparative Literature 64.3 (2012), pp.241–256;Ercolino, The Maximalist Novel: From Thomas Pynchon’s Gravity’s Rainbow to Roberto Bolaño’s 2666, Bloomsbury Academic, 2014。

6. 代表作の選定は、メンデルソン、ルクレール、カール、エルコリーノ、レッツラー、フランコ・モレッティの原コーパスと後続研究での反復を基準とした。Herman Melville Moby-Dick、James Joyce Ulysses、Thomas Pynchon Gravity’s Rainbow、William Gaddis J R、David Foster Wallace Infinite Jest、Don DeLillo Underworld、Zadie Smith White Teeth、Roberto Bolaño 2666 を本記事の中核例とする。Franco Moretti, Modern Epic: The World-System from Goethe to García Márquez, Verso, 1996(イタリア語版1994)。

7. Edward Mendelson, “Gravity’s Encyclopedia,” in George Levine and David Leverenz eds., Mindful Pleasures: Essays on Thomas Pynchon, Little, Brown, 1976, pp.161–195;LeClair, The Art of Excess, 1989;Ercolino, The Maximalist Novel, 2014;Letzler, The Cruft of Fiction, 2017;Luc Herman and Petrus van Ewijk, “Gravity’s Encyclopedia Revisited: The Illusion of a Totalizing System in Gravity’s Rainbow,” English Studies 90.2 (2009), pp.167–179。

8. David Letzler, Reading Cruft: A Cognitive Approach to the Mega-Novel, PhD diss., CUNY Graduate Center, 2014;Letzler, The Cruft of Fiction: Mega-Novels and the Science of Paying Attention, University of Nebraska Press, 2017。レッツラーはメガノベルの国際的な例として村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』やロベルト・ボラーニョを含めている。

9. 古川日出男公式サイト掲載「私的古川論」は『聖家族』を「メガノベル」と明記する。また古川は2020年のインタビュー「古川日出男さん『おおきな森』インタビュー」で、自ら「メガノベル」の系譜に連ねる過去作として『アラビアの夜の種族』『聖家族』を挙げている。

10. 大西巨人『神聖喜劇』は原稿用紙約4700枚の全五巻。筑摩書房の刊行紹介等でも4700枚の大長篇として紹介されている。小島信夫『別れる理由』は1968~1981年に『群像』で連載され、1982年に全三巻で刊行された大長篇である。

11. MMM『魚の夢』について、公開作品情報では「120万字をこえる大長編小説」「総合小説」と説明され、「私とはなにか、愛とはなにか、正義とはなにか、世界とはなにか」等を扱うとしている。2026年9月6日付の作者公開日記では作品を「130万字」と記載している。

12. David J. Letzler, “Encyclopedic Novels and the Cruft of Fiction: Infinite Jest’s Endnotes,” Studies in the Novel 44.3 (2012), pp.304–324;Reading Cruft: A Cognitive Approach to the Mega-Novel, 2014;The Cruft of Fiction: Mega-Novels and the Science of Paying Attention, 2017。出版社の公式抜粋でも、巨大作品の読書における集中、流し読み、読み飛ばしと注意配分の問題が説明されている。

13. Frederick R. Karl, “American Fictions: The Mega-Novel,” Conjunctions 7 (1985), pp.248–260;Stephen J. Burn, “At the Edges of Perception”: William Gaddis and the Encyclopedic Novel from Joyce to David Foster Wallace, PhD thesis, Durham University, 2001。Burnは、カールが1985年の専論でメガノベル理論を具体的に展開したと整理している。1983年の American Fictions: 1940–1980 に“mega-novels”の先行使用があるとの指摘は存在するが、監査済み調査ではその根拠とされた二次資料の該当箇所およびカールの同書該当頁を直接確認できなかったため、主要根拠には採用していない。

14. 日本語用例として、ジョン・アップダイク『さようならウサギ』(新潮社、1997)の紹介に「超大型小説“メガノヴェル”」、古川日出男『平家物語』(2016)の著者紹介に「ポリフォニックな中世のメガノベル」、神戸大学文学部芸術学研究室の2019年研究会要旨に「『偉大なるアメリカ小説』型メガノヴェル」が確認される。

15. James Zeigler, “Introduction: Big Novel Ambition without Apology,” Genre 54.1 (2021), pp.1–16;Lloyd Grove, “Gaddis and the Cosmic Babble,” The Washington Post, 1985;Wes Chapman, “Male Pro-Feminism and the Masculinist Gigantism of Gravity’s Rainbow,” Postmodern Culture 6.3 (1996);N. Katherine Hayles, “Maxing Out the Novel,”NOVEL 49.3 (2016), pp.519–522;David Kurnick, review of Ercolino, The Maximalist Novel, Studies in the Novel 47.2 (2015), pp.269–270;Paul Crosthwaite, The Market Logics of Contemporary Fiction, Cambridge University Press, 2019。

※本記事はATTESTED記事です。事実記述は実在し確認可能な資料に基づき、第三者の見解、筆者による推論・解釈・評価を含む場合には、それらを確認済みの事実と混同しない形で記載しています。現実の事実として提示される意図的な虚構や捏造は含みません。

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