純文学の定義とは?|意味の変化と論争の歴史をわかりやすく解説

Read in English

「純文学とは何か」と調べると、芸術性を重視する文学、大衆文学の反対、私小説、芥川賞の対象になる文学など、いくつもの説明が出てくる。いったいどれが正しいのだろうか。

この記事を音声で聴く(約21分・AIによる要約音声)

※この音声は記事を生成AIで要約・音声化したものです。要約の過程で誇張・省略・事実の誤りが生じている可能性があります。正確な内容は本文をご確認ください。

結論からいうと、純文学に一つだけの定義があって、ほかがすべて間違いというわけではない。 日本では1890年代から「純文学」という言葉が使われ、その後、大衆文学との対立、私小説を重視する文学観、文芸誌や文学賞などの制度が重なりながら、意味が変化してきた。

ただし、中心にある考え方は比較的一貫している。純文学とは、娯楽性や市場での成功だけではなく、言葉、形式、人間や社会の捉え方など、「文学としてどのような価値を実現しているか」を重視する文学の領域である。問題は、「何を文学的価値とみなすのか」が時代や論者によって変わってきたことである。

純文学そのものの意味や特徴を先に知りたい場合は、親記事「純文学とは?意味・特徴・大衆文学との違いをわかりやすく解説」を参照してほしい。本記事では、純文学の主要な定義を最初に整理したうえで、「純文学」という言葉がどのように生まれ、意味を変え、どのような論争を経て現在まで残ってきたのかを見ていく。


純文学の定義は一つではない

純文学については、歴史的にいくつかの捉え方が重なってきた。最初に全体像を整理すると、次のようになる[1]。

純文学の捉え方簡単にいうと
文学的・芸術的価値を重視する文学娯楽性や売上だけでなく、言語、形式、人間や社会の捉え方などを評価する
大衆文学との対比による定義大衆性・娯楽性を重視する文学との対比によって純文学の輪郭を捉える
私小説・心境小説を中心とする文学観日本では特に大正末から昭和期、作家自身の経験や心境を書く文学が中心的に評価された
文芸誌・文学賞などによる制度的なカテゴリー文芸誌、出版社、文学賞、批評などの仕組みのなかで純文学として扱われる
意味が変化してきた歴史的カテゴリー「純文学」が指すものは1890年代、1930年代、戦後、現在で完全には同じではない

ここで注意したいのは、これらが五つの互いに無関係な学説というわけではないことだ。

もっとも基本にあるのは、純文学を「文学的・芸術的価値を重視する文学」と考える定義である。それが大衆文学との対比によって輪郭を強め、日本では私小説を重視する文学観とも結びつき、さらに文芸誌や文学賞によって制度として定着していった、と考えるとわかりやすい。

つまり純文学に「定義がない」のではない。中心となる意味のまわりに、時代ごとの文学観や制度が積み重なっているのである。

では、その積み重なりはいつ、どのように起こったのか。まず全体の流れを年表で確認してから、各時代を順に見ていこう。


純文学 年表:意味はどう変わった?

細かな論争に入る前に、「純文学」という言葉と考え方の変化を簡単にまとめる。

時代純文学をめぐる主な変化
1890年代「純文学」の早期用例が現れる。現在のような「大衆文学の反対」とはまだ限らない
1910〜20年代大衆文学・通俗文学との対比が次第に強くなる
1920〜30年代私小説・心境小説を文学の中心に置く考え方が強い影響力を持つ
1935年横光利一「純粋小説論」が、純文学と通俗小説の分断を問題にする
戦後「中間小説」が広まり、純文学と大衆文学の二分法では説明しにくい領域が意識される
1961〜62年「純文学は変質したのか」をめぐる純文学論争が起こる
現代境界は固定されていないが、芥川賞や文芸誌などで制度的カテゴリーとして残っている

大まかにいえば、最初に「芸術としての文学」という意味があり、その後、大衆文学との対比、私小説中心の文学観、出版・文学賞制度などが加わって現在の純文学が形成されたと考えると理解しやすい。


「純文学」という言葉はいつ生まれたのか

「純文学」という言葉は、少なくとも19世紀末には使われていた。

『精選版 日本国語大辞典』が早期用例として挙げているのは、森鴎外が1891年に書いた「美妙斎主人が韻文論」である。鴎外はそこで、山田美妙が詩=ポエジーを「純文学 pure literature」と名づけたことに言及している[2]。

ただし、ここから「森鴎外が純文学という言葉を作った」と考えることはできない。文中では山田美妙に帰属する言葉として紹介されているし、美妙本人が造語者だったと確定しているわけでもない。1891年が絶対的な初出だとも確認されていない。

1893年には、北村透谷の「人生に相渉るとは何の謂ぞ」にも「純文学の領地」という表現が現れる[3]。1890年代にはすでに、文学や芸術について論じる人々のあいだで「純文学」という言葉が使われ始めていたことがわかる。


最初の純文学は「大衆文学の反対」ではなかった

現在では「純文学の反対は大衆文学」と説明されることが多い。しかし、「純文学」という言葉が登場したころから、最初からこの対立があったわけではない。

1891年に鴎外が紹介した美妙の用法では、「純文学」は詩=ポエジーを指していた。一方、辞書・事典では、この初期の用法を含めて、詩・小説・戯曲などの芸術的な文芸を、より広い文章や学問から区別する意味として整理している[2]。

つまり初期の「純文学」は、「売れる娯楽小説ではない文学」というより、芸術としての文学を指す言葉に近かった。

これは重要な違いである。「純文学」という言葉の誕生と、「純文学/大衆文学」という二分法の誕生は別の出来事だからだ。

『精選版 日本国語大辞典』では、大衆文学と対比される意味での「純文学」の用例として『新らしい言葉の字引』(1918年)が挙げられている。一方、「大衆文学」という言葉は、同辞典では1923年の関東大震災前後に生まれた時代小説を指すところから始まったと説明される[2]。

つまり現在よく知られている「純文学対大衆文学」という構図は、最初から存在したのではなく、20世紀に入ってから次第にはっきりしていった。


大正から昭和初期にかけて、新聞や雑誌、出版市場が拡大し、多くの読者に向けた小説が大きな存在感を持つようになった。

小説が一部の文学愛好家だけでなく、多くの読者に読まれる商品になっていくと、「読者を楽しませる小説」と「芸術としての文学」をどう区別するのかが問題になった。

そのなかで、純文学を芸術的・文学的価値を重視する側、大衆文学を大衆性・娯楽性を重視する側として捉える対比が強まっていく。

ただし、この二分法は成立した直後からきれいに機能していたわけではない。1933年の「文藝復興座談会」では、菊池寛が、日本では通俗小説と純文学の距離が離れすぎているという趣旨の発言をしている[4]。つまり当時の人々も、「純文学と大衆文学を完全に別世界にしてしまってよいのか」と考えていたのである。

この問題は、1930年代の文学論争でさらに大きなテーマになった。


なぜ純文学と私小説が結びついたのか

日本の純文学について調べると、「私小説」という言葉が頻繁に出てくる。

私小説とは大まかにいえば、作家自身の生活、経験、心境などと強く結びついた小説である。日本では自然主義文学の展開などを通して、こうした作品が文学の重要な形として大きな影響力を持った。

1925年、久米正雄は「『私』小説と『心境』小説」で、私小説・心境小説を散文芸術の中心に置く強い文学観を示した[5]。久米自身はこの評論で「純文学」という言葉を使っていないが、当時どのような小説が本格的な文学として高く評価されていたのかを知る重要な資料である。

1935年の横光利一も、当時の純文学について、作家の身辺や自己の経験を書く方向へ進んできた文学として論じている[6]。そのため大正末から昭和期には、純文学の中心には私小説があるという理解が強く存在した。

しかし、これは歴史上強かった純文学観であって、「純文学=私小説」という普遍的な定義ではない。後には安部公房のように、私小説とは大きく異なる作品を書く作家も純文学の中心で評価されるようになる。


1930年代:横光利一は純文学と通俗小説の壁を越えようとした

1930年代には、「純文学と通俗小説は本当にこれほど離れていてよいのか」という問題が盛んに論じられた。

その代表的な文章が、横光利一の「純粋小説論」(1935年)である。横光は当時、純文学、芸術文学、純粋小説、大衆文学、通俗小説という複数の概念が入り乱れていると述べたうえで、純文学と通俗小説を分離したままにしない方向を模索した[6]。

横光が掲げた「純文学にして通俗小説」という言葉は、その考えをよく表している。簡単にいえば、文学的な価値を持ちながら、同時に小説として人を惹きつける作品は作れないのか、という問題である。

「純粋小説論」は大きな反響を呼び、『三田文学』『文藝通信』『作品』『文學界』『新潮』などで批判や応答が行われた[7]。つまり1930年代にはすでに、「純文学は専門家だけが読む文学でよいのか」「物語や読者の楽しさをどう考えるのか」といった問題が争われていた。

純文学と大衆文学の境界が最近になって曖昧になったわけではない。境界をどこに引くべきかという議論は、少なくとも1930年代にはすでに本格化していたのである。


戦後:「中間小説」が純文学と大衆文学の境界を揺らす

第二次世界大戦後には、「中間小説」という言葉が広く使われるようになる。

中間小説とは名前の通り、純文学と大衆文学の中間にあるような作品を説明するために使われた言葉である。ただし、両者をちょうど半分ずつ混ぜたジャンルという意味ではない。何を中間小説と呼ぶのかについても、作品内容で判断するのか、掲載される雑誌で判断するのかなど、当時から意見が一致していなかった[8]。

丸山倫世の研究では、名称が広まる直接的なきっかけの一つとして、1947年の座談会で久米正雄が林房雄の作品を「代表的な中間小説」と呼んだことが挙げられている。『小説新潮』のような読物雑誌も重要な発表媒体になった[8]。

中間小説の存在は、純文学と大衆文学のあいだに作品が存在しないわけではないことを明らかにした。むしろ戦後の出版市場では、二つの区分だけでは実際の小説を説明しにくくなっていたのである。

純文学と大衆文学の違いそのものについては、親記事の「純文学と大衆文学は何が違うのか」でも整理している。


1960年代:「純文学は変質したのか」が大論争になる

1961年から62年にかけては、「純文学とは何か」をめぐる大きな論争が起こった。一般に「純文学論争」「純文学変質論争」などと呼ばれる。

中心人物の一人が批評家の平野謙である。平野は、純文学を永遠に変わらない文学の本質ではなく、特定の文学史的条件から成立した歴史的な概念として考えた。そして同時代の小説を見ると、それまで純文学とされてきた領域が変化しているのではないかと論じた[9]。

伊藤整も1961年の「『純』文学は存在し得るか」で、松本清張や水上勉などの作品を念頭に、これまで純文学だけが担うと思われていた文学的な目標を、別の領域の小説も実現し始めているのではないかと問題を提起した[9]。

一方、大岡昇平、高見順、山本健吉、瀬沼茂樹らからは異論や反論が出た。ただし、この論争を単純に「純文学を守りたい人」と「大衆文学のほうが優れていると考える人」の争いとして理解するのは正確ではない。

実際には、「純文学はいつ成立したのか」「純文学は本当に変質したのか」「中間小説や大衆文学をどう評価するのか」「文学は社会や現実とどう関わるべきか」「文芸誌や文壇の仕組みはどう変わっているのか」といった、複数の問題が同時に争われていた[9]。

純文学論争が重要なのは、純文学を固定された作品ジャンルではなく、歴史と社会のなかで成立し、変化するカテゴリーとして捉える考え方がはっきり現れた点にある。


その後も「何を純文学と呼ぶか」は問い直された

1960年代の論争で、純文学の問題が決着したわけではない。

1974年には、江藤淳、平岡篤頼らをめぐって、いわゆる「フォニー論争」が起こった。「本物の文学」と「贋物の文学」をどう区別するのかという、文学的な真正さや評価の根拠をめぐる議論である[10]。

1990年代から2000年代になると、議論は作品だけでなく、純文学を支える出版制度そのものにも広がっていく。その重要な局面の一つが、2002年に大塚英志が『群像』へ発表した「不良債権としての『文学』」である[11]。

大塚は、売上を文学評価の唯一の基準にすることを否定しながら、赤字の文芸誌や文学出版を既存の出版社が支え続ける仕組みが持続可能なのかを問題にした。そして既存の流通システムの外側に、書き手自身が作品を販売できる市場をつくる構想を示した。この呼びかけを発端として、同年11月3日に第1回文学フリマが開催された[11]。

一方、笙野頼子はこうした時期の論争を含む長い文学上の対立を、2005年の『徹底抗戦!文士の森 実録純文学闘争十四年史』にまとめている[11]。ここで争われたのは単純な「売れる文学か、売れない文学か」という二択ではない。文学と市場の関係、文芸誌や出版社の役割、既存の批評制度、漫画や他ジャンルとの関係など、純文学を成立させている仕組みそのものが問題になっていた。

つまり純文学をめぐる論争は、「どんな作品が純文学なのか」だけでなく、「誰が作品を評価し、どんな制度が文学を支えるのか」という問題にまで広がっていったのである。


現代では純文学をどう定義できるのか

では、百年以上の歴史を踏まえたうえで、現在の純文学をどう考えればよいのだろう。

まず、「純文学」という言葉が完全に消えたわけではない。現在も芥川龍之介賞は「新進作家による純文学の中・短編」を対象としており、文芸誌、出版社、新人賞、文学賞、批評を通じて、純文学という領域は制度として機能している[12]。

一方で、作品の中に「これがあれば必ず純文学」という特徴が一つだけ存在するわけではない。文体、形式、私小説性、難解さ、売上、掲載媒体のどれか一つだけで、すべての作品を分類することはできない。

現在の純文学は、次のように捉えるとわかりやすい。

純文学とは、娯楽性や市場性だけではなく、言葉、形式、人間や社会の捉え方などの文学的達成を重視し、日本近代文学の歴史と文芸誌・文学賞・批評などの制度のなかで形成されてきた文学領域である。

この定義なら、なぜ純文学が大衆文学と区別されてきたのか、なぜ私小説と深く結びついた時期があるのか、なぜ芥川賞や文芸誌が重要なのかを、一つの考え方のなかで説明できる。

純文学で実際にどのような点が評価されるのかについては、親記事の「純文学は何をもって評価されるのか」でも、芥川賞選評の比較をもとに整理している。

そして文学の評価基準そのものが変われば、純文学の輪郭も変わる。だからこそ、純文学の定義は百年以上にわたって何度も問い直されてきたのである。


よくある質問

純文学に明確な定義はある?

中心的な定義はある。純文学は、娯楽性や市場性だけでなく、芸術的・文学的価値を重視する文学である。ただし、時代や論者によって重視されるものが変わるため、すべての作品を機械的に分類できる一つの必要十分条件はない。

純文学と大衆文学はいつ分かれた?

「純文学」という言葉自体は1890年代には確認できるが、最初から大衆文学の反対語だったわけではない。大衆文学と対比する意味は1918年の辞書にも見られ、「大衆文学」という語自体も1920年代に広まったとされる。現在につながる二分法は、大正から昭和初期にかけて強まったと考えられる。

純文学と私小説は同じ?

同じではない。ただし、大正末から昭和期の日本では、私小説や心境小説を純文学の中心に置く文学観が強く存在した。そのため両者は歴史的に深く結びついている。

純文学と大衆文学の境界は昔から曖昧だった?

区別自体は存在していたが、その距離や境界の引き方は早い時期から問題になっていた。1930年代の横光利一の「純粋小説論」、戦後の中間小説、1960年代の純文学論争などは、その代表例である。

芥川賞を取れば純文学なの?

現在の芥川賞は公式に純文学の中・短編を対象としているので、芥川賞と純文学には明確な制度上の関係がある[12]。ただし、芥川賞を受賞した作品だけが純文学なのではなく、芥川賞の対象になることが純文学の定義そのものでもない。芥川賞や文芸誌など制度面については、親記事の「純文学を支える文芸誌と芥川賞」でも解説している。

「純文学」という言葉は今も使われている?

使われている。少なくとも文学賞や出版制度では現在も現役の言葉であり、日本文学振興会も芥川賞の対象説明に「純文学」という語を用いている[12]。


まとめ:純文学の定義が複数あるのには理由がある

純文学は、単に「定義できない文学」なのではない。中心にあるのは、娯楽性や市場性だけでなく、文学としての価値や達成を重視するという考え方である。

ただし、「文学として何が優れているのか」という考え方は変化する。19世紀末には芸術的な文芸を指す言葉として使われ、20世紀には大衆文学との対比が強まり、日本では私小説を中心に置く文学観とも結びついた。1930年代には純文学と通俗小説の距離が論争になり、戦後には中間小説が登場し、1960年代には純文学が変質したのかという大きな論争が起きた。その後は、作品だけでなく文学を支える出版・批評制度そのものも論点になった。

だから純文学には、「芸術的価値を重視する文学」「大衆文学と対比される文学」「私小説を中心にした歴史的な文学観」「文芸誌や文学賞による制度的カテゴリー」といった複数の説明が存在する。

これらは互いに無関係な定義ではない。一つの言葉に、日本近代文学が百年以上かけて積み重ねてきた文学観と制度の歴史が残っているのである。


この記事の調査について

本記事では、「純文学」という言葉の成立と意味の変化について、辞書・事典、作家・批評家による一次資料、文学研究、文芸誌・文学賞などの制度資料を照合した。後世の意味を過去の用例へそのまま当てはめないこと、同時代資料と後世の研究者による整理を区別すること、一次資料を直接確認していない論争の細部を断定しないことを重視している。


注

  1. 純文学の主要な定義。 『精選版 日本国語大辞典』『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』等、および純文学の概念史に関する研究を参照。辞書・事典の複数項目はコトバンク「純文学」から確認できる。
  2. 初期の「純文学」と1918年の用例。 森鴎外「美妙斎主人が韻文論」(1891年)については、『精選版 日本国語大辞典』「純文学」が早期用例として掲げる。山田美妙を造語者と確定するものではない。同辞典は、大衆文学と対比される意味での「純文学」の例として『新らしい言葉の字引』(1918年)も掲げる。コトバンク「純文学」参照。
  3. 北村透谷。 北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(1893年)の「純文学の領地」は、青空文庫本文で確認できる。
  4. 1933年「文藝復興座談会」。 『文藝春秋』11巻11号、1933年11月、p.208。菊池寛の発言については丸山倫世の研究を経由して確認しており、本記事の基礎調査では座談会原誌を直接照合していない。丸山倫世「昭和20年代における中間小説―その文学的位置づけと変遷」は大阪公立大学機関リポジトリで公開されている。
  5. 久米正雄。 久米正雄「『私』小説と『心境』小説」(1925年)。初出は『文藝講座』第7号(1925年1月15日)・第14号(同年5月15日)。青空文庫図書カードを参照。久米は同評論で「純文学」という語を用いていないため、久米自身による純文学の定義としては扱わない。
  6. 横光利一「純粋小説論」。 1935年。純文学・芸術文学・純粋小説・大衆文学・通俗小説の五概念を挙げ、「純文学にして通俗小説」という方向を示す。本文は青空文庫「純粋小説論」で確認した。二次資料には標語を「純文学にして通俗文学」とするものもあるが、本記事では確認底本の「通俗小説」を採用した。
  7. 「純粋小説論」への反響。 1935年5月『三田文学』の「純粋小説批判」特集、同月『文芸通信』、中村光夫「純粋小説論について―文芸時評―」『文學界』1935年5月、川端康成「『純粋小説論』の反響」『新潮』同年7月などについて、丸山倫世「文学論争にみる昭和期の純文学概念―純粋小説論と純文学変質論争を例に」を参照。論文は大阪公立大学機関リポジトリで公開されている。個々の応答本文には本記事の基礎調査で直接確認していないものを含む。
  8. 中間小説。 辞書的説明はコトバンク「中間小説」を参照。1947年の久米正雄の発言、名称の流通、作品内容による規定と掲載媒体による規定の不一致については、丸山倫世「昭和20年代における中間小説―その文学的位置づけと変遷」大阪公立大学機関リポジトリを参照。1947年の座談会原誌は本記事の基礎調査では直接確認していない。
  9. 1961〜62年の純文学論争。 平野謙、伊藤整、大岡昇平、高見順、山本健吉、瀬沼茂樹らをめぐる論争について、丸山倫世「文学論争にみる昭和期の純文学概念―純粋小説論と純文学変質論争を例に」、木村政樹「『アクチュアリティ』の時代―純文学論争における平野謙」『日本近代文学』90、2014年、93–108頁などを参照。木村論文はJ-STAGEで公開されている。個々の論争資料には初出本文を直接確認していないものを含む。
  10. フォニー論争。 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「純文学」項は、1974年の江藤淳・平岡篤頼らによる論争に言及している。資料によって「フォニー」「フォニイ」と表記が揺れるため、本文では「フォニー論争」に統一した。辞書・事典項目はコトバンク「純文学」を参照。発端となった新聞座談会の原紙は本記事の基礎調査では未確認。
  11. 2000年代の出版制度をめぐる議論と文学フリマ。 大塚英志「不良債権としての『文学』」は『群像』2002年6月号掲載。大塚本人の許可を得た文学フリマ公式サイトの公開再録がある。文学フリマがこの文章での呼びかけを発端として生まれた経緯は、公式の「文学フリマの軌跡2002-2003」および公式年表で確認できる。笙野頼子『徹底抗戦!文士の森 実録純文学闘争十四年史』は河出書房新社、2005年。出版社書誌および公開前文を参照。1990年代から2000年代の問題を大塚・笙野だけの二者間論争としては整理しない。
  12. 現行制度における純文学。 公益財団法人日本文学振興会は、芥川龍之介賞を雑誌(同人雑誌を含む)に発表された新進作家による純文学の中・短編作品を対象とする賞としている。日本文学振興会「各賞紹介」を参照。これは現行制度上の分類であり、純文学概念全体を芥川賞の対象規定だけで定義するものではない。

参考資料・主要出典

辞書・事典

小学館『精選版 日本国語大辞典』『日本大百科全書』ほか「純文学」収録ページ/「中間小説」収録ページ/平凡社『改訂新版 世界大百科事典』関連項目

一次資料

森鴎外「美妙斎主人が韻文論」/北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」/久米正雄「『私』小説と『心境』小説」/横光利一「純粋小説論」/大塚英志「不良債権としての『文学』」

研究・批評

丸山倫世「文学論争にみる昭和期の純文学概念―純粋小説論と純文学変質論争を例に」/丸山倫世「昭和20年代における中間小説―その文学的位置づけと変遷」/木村政樹「『アクチュアリティ』の時代―純文学論争における平野謙」ほか

制度・公式資料

公益財団法人日本文学振興会「各賞紹介」/文学フリマ「文学フリマの軌跡2002-2003」/河出書房新社『徹底抗戦!文士の森』書誌/主要出版社・文芸誌の公式資料

※本記事はATTESTED記事です。事実記述は実在し確認可能な資料に基づき、第三者の見解、筆者による推論・解釈・評価を含む場合には、それらを確認済みの事実と混同しない形で記載しています。現実の事実として提示される意図的な虚構や捏造は含みません。

visceraをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む