純文学とは?|意味・特徴・大衆文学との違いをわかりやすく解説

Read in English

純文学とは、面白さや売れ行きだけでなく、「文学として何を達成したか」を重視して作品を評価する文学の領域である。言葉や形式、人間や社会の捉え方、独自性などが、その重要な評価対象になる。

この記事を音声で聴く(約22分・AIによる要約音声)

※この音声は記事を生成AIで要約・音声化したものです。要約の過程で誇張・省略・事実の誤りが生じている可能性があります。正確な内容は本文をご確認ください。

難しい文章で書かれた小説だけを意味するわけではない。コンビニを舞台にした村田沙耶香『コンビニ人間』のように、身近な題材を扱った作品も純文学として評価されている[7]。一方で、大衆に広く受け入れられなかったり、商業的に成功しなかったりしても、高い文学的達成が認められれば優れた純文学として評価されうる。

何を「文学としての達成」とみなすかについて、全員が共有する一つの採点基準があるわけではない。文体、人物、構成、新しさ、社会の捉え方など、重視される点は時代や論者によって変わってきた。本記事では辞書・事典や文学史資料に加え、13回の芥川賞から受賞側11作品・非受賞候補4作品、計15作品の選評を比較した基礎調査も使いながら、純文学の意味、特徴、大衆文学との違い、代表的な作品、歴史、評価のされ方を整理する[2]。


純文学とは?まず簡単にいうと

辞書・事典では、純文学は大衆文学や通俗文学と対比され、娯楽的な興味よりも芸術的な表現や価値を重視する文学として説明されている[1]。大筋ではこの説明でよい。ただ、「芸術性」という言葉だけでは、何が評価されているのかがわかりにくい。

純文学では、物語が面白かったか、たくさん売れたかということに加えて、どのような言葉で書かれているか、どのような形式を選んでいるか、人間や社会をどう捉えているか、その作品にどんな固有性があるかといった点が重要な価値として扱われる。

「文学としての達成」は一種類ではない。美しい文章だけを意味するわけでも、奇抜な形式だけを意味するわけでもない。言語、構成、人物、主題、新規性など、さまざまな面から、その作品が文学に何を付け加えたのかが問われる。


純文学にはどんな特徴があるのか

純文学には、次のような特徴が見られる。これは必要条件の一覧ではなく、純文学で重視されやすい傾向をわかりやすくまとめたものである。

  • 言葉や語り方を重視する:何が起きるかだけでなく、どんな言葉で、誰の視点から、どのように語るかが作品の価値として意識されやすい。
  • 人間や社会の捉え方を重視する:人物の心理、他者との関係、価値観の矛盾、社会のなかでの生き方などが重要な問題になりやすい。
  • 新規性や固有性が評価されやすい:新しい感覚、ものの見方、語り方、形式などが評価される。ただし、新しければそれだけで優れているわけではない。
  • 構成・展開・結末も評価される:出来事の配置、時間の組み方、視点、展開、終わり方など、「どう作品を組み立てたか」も重要になる。
  • 大衆的人気や娯楽性だけで価値を決めない:面白さや人気を否定するわけではないが、それらが乏しくても、文学的な達成によって高く評価されることがある。

実際に受賞作・候補作15作品の芥川賞選評を比較した限定サンプルでは、主な評価軸として、言語・語り、構成・展開・結末、人物・人間認識、社会認識・主題の作品化、新規性・固有性、完成・統一、現実感・因果の説得力、切実さ・表現の熱、読者への作用・可読性が確認された[2]。

つまり純文学では、「何が書かれているか」だけでなく、「どう書かれているか」「その書き方によって何が実現されたか」まで評価の対象になる。


純文学と大衆文学の大きな違いは、何を作品の価値として重く見るかにある。もっとも簡単にいえば、次のように整理できる。

大衆文学=大衆性・娯楽性が評価基準の内部に入っている。
純文学=大衆性・娯楽性がなくても評価が成立しうる。

純文学大衆文学
中心的な評価文学としての達成大衆性・娯楽性
重視されやすいもの言語、形式、人間・社会の捉え方、固有性など物語の面白さ、読者を惹きつける力、娯楽性など
大衆的人気高評価の必須条件ではない作品価値と強く結びつく
市場・読者への志向文学的価値から分けて評価できる重要な評価要素になりやすい
代表的な文学賞芥川龍之介賞直木三十五賞

大衆文学では、広い読者を惹きつけ、楽しませることが作品価値の中心的な基準になる。文章、人物造形、思想性などが高く評価されることも当然あるが、「読者に届く力」「読者を楽しませる力」をまったく欠いた作品を、大衆文学として優れていると評価することは難しい。

純文学では事情が異なる。大衆的人気、商業的成功、読みやすさ、娯楽としての面白さは、作品が優れているための必須条件ではない。広く読まれず、売れず、多くの読者に面白いと思われなかったとしても、言語表現、形式、人間や社会の捉え方、固有性などに高い文学的達成が認められれば、優れた作品として評価されうる。

ただし、実際の売上と「大衆性」は同じではない。よくできた娯楽小説でも、宣伝や流通などの事情で売れないことはありうる。重要なのは何部売れたかではなく、広い読者へ届き、読者を惹きつけ、楽しませることが作品の価値として組み込まれているかである。

住宅と建築賞の違いで考える

この違いは、住宅と建築賞にたとえると理解しやすい。一般向けの住宅では、買いたい人がいるか、住みやすいか、価格に見合っているかといったことが重要になる。どれほど専門家が革新的だと評価しても、買い手にとってまったく魅力がなく、商品として求められるものを満たしていなければ、一般向け住宅として高く評価することは難しい。

一方、建築賞では別の評価基準が加わる。空間の新しさ、構造や素材の使い方、過去の建築との関係、建築という分野に何を付け加えたのか、といった点である。そのため、「広く売れる住宅ではないが、建築として重要」という評価が成立しうる。

純文学と大衆文学にも、これに近い違いがある。大衆文学では読者や市場の反応を作品評価から切り離しにくい。一方、純文学では作家、批評家、編集者など、その分野の歴史や技法を知る人々による評価が大きな役割を持ってきた。そのため、言語をどう更新したか、どんな形式を作ったか、人間や社会についてどんな新しい見方を示したか、過去の文学とどう関わったかといった評価軸も強くなる。

これは「純文学はつまらなくてよい」「売れないほど偉い」という意味ではない。売れて面白く、文学的にも高く評価される作品は当然ある。純文学と大衆文学は完全に別の種類の小説なのではなく、何を作品価値の必須条件とし、何を中心に評価するかが異なるのである。

戦後には、こうした二分法だけでは捉えにくい領域をめぐって「中間小説」という呼び方も使われた[3]。ただし、中間小説を純文学と大衆文学の要素を半分ずつ混ぜた固定ジャンルと考えるのは正確ではない。作品内容で区別するのか、掲載媒体で区別するのかについても当時から見解が一致しておらず、その存在自体が純文学と大衆文学の境界の複雑さを示している。

現在の文学賞制度にも区別は残っている。日本文学振興会は、芥川龍之介賞を雑誌に発表された新進作家による純文学の中・短編作品、直木三十五賞を新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本を対象とする賞としている[4]。

純文学と大衆文学の歴史的な区別や、両者の境界がどこまで実在するのかについては、別記事「純文学と大衆文学の違いとは?」で詳しく扱っている。


純文学の代表的な作品:3作品から特徴を見る

純文学には一つの決まった文体や題材があるわけではない。ここでは、純文学の幅を理解しやすく、制度上の位置づけも確認できる三つの作品を見る。

安部公房『砂の女』は1962年、新潮社の「純文学書下ろし特別作品」の一冊として刊行された[5]。男が砂穴の底にある家から出られなくなり、そこでの生活を強いられていく。作者自身の日常や心境を中心に書く私小説とは大きく異なり、自由、労働、社会との関係などを考えさせる作品でもある。純文学を「作家本人の身辺を書く文学」と考えるだけでは説明できない例である。

村上龍『限りなく透明に近いブルー』は1976年に群像新人文学賞を受賞し、その後、第75回芥川賞を受賞した[6]。『文藝春秋』1976年9月号の選評では、中村光夫が技術上の未完成を超える独創性を認め、吉行淳之介は単調さや退屈する部分を指摘しながら、作者の資質を高く評価した。新しさが評価されても、それだけで作品全体の評価が決まるわけではないことがわかる。

村田沙耶香『コンビニ人間』は『文學界』2016年6月号掲載作で、同年に第155回芥川賞を受賞した[7]。コンビニで働く女性と周囲の人々を通じて、「普通」とは何か、社会に適応するとはどういうことかを描いている。純文学の題材が、特別な芸術家や劇的な事件に限られているわけではないこともわかる。

この三作だけでも、純文学を私小説、難解な文章、事件の起こらない小説といった一つの特徴にまとめることは難しい。共通しているのは題材ではなく、作品が文学として何を実現したのかという観点から読まれ、評価されていることである。

より多くの代表作や初心者向け作品については、別記事「純文学のおすすめ・代表作」で扱う予定である。


純文学は「難しい文学」なのか

純文学には難しい作品が多い、という印象にはある程度理由がある。純文学では言語、形式、語り、人間認識などが強く意識されるため、それらを前面に出した作品では、物語を追うだけでは意味を捉えにくいことがある。解釈を一つに固定せず、読者に考える余地を残す作品もある。

しかし、難解さ自体が純文学の価値なのではない。難しい単語を使えば純文学になるわけでも、意味がわかりにくければ文学性が高くなるわけでもない。文章が平易でも、人物や社会の捉え方、作品の構造に高い文学的達成が認められる作品はある。

また、「難しい」にも種類がある。語彙が難しい場合、文章構造が複雑な場合、時代背景の知識が必要な場合、語りの仕掛けが複雑な場合、意味を一つに決めにくい場合は、それぞれ別の難しさである。純文学には読解に負荷のかかる作品があるという傾向は認められるが、「難しいこと」を定義にはできない。

この問題は、別記事「純文学は難しいのか?」で、語彙・構文・形式・前提知識・解釈の難しさを分けて詳しく扱う予定である。


「純文学」という言葉はどうやって生まれたのか

「純文学」という言葉は19世紀末にはすでに確認できる。『精選版 日本国語大辞典』は、森鴎外が1891年に書いた「美妙斎主人が韻文論」を早期用例として挙げている。そこでは、山田美妙が詩=ポエジーを「純文学 pure literature」と名づけたことに鴎外が言及している[1]。ただし、美妙が「純文学」という語の造語者であると確定しているわけではなく、1891年が絶対的な初出だとも確認されていない。

1893年には北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」に「純文学の領地」という用例が確認できる[1]。また、『精選版 日本国語大辞典』は、大衆文学と対比される意味での「純文学」の例として『新らしい言葉の字引』(1918年)を挙げている。少なくとも1918年には、現在につながる「大衆文学に対する純文学」という意味が辞書に現れていたことになる。

同辞典の語誌では、芸術的な文芸を指す意味での「純文学」が『文学界』などの文壇形成とともに見え始め、大正から昭和初期にかけて大衆文学が発達するなかで、その対語としての性格を強めていった可能性が示されている[1]。

1935年、横光利一は「純粋小説論」で、純文学と通俗小説を分離したままにせず、双方からより高い「純粋小説」へ向かう構想を提示した[8]。横光が同論で引く自身の標語「純文学にして通俗小説」は、その方向を端的に示している。同論では、純文学、芸術文学、純粋小説、大衆文学、通俗小説という複数の概念が入り乱れていることにも言及している。

純文学は最初から完成された定義を持っていたのではない。時代ごとに何を文学の価値と考えるのかが変わるなかで、意味を変化させてきた歴史的なカテゴリーである。言葉の成立と概念をめぐる論争については、別記事「純文学の定義と論争の歴史」で詳しく扱っている。


純文学と私小説は同じなのか

日本の純文学史では、私小説が大きな位置を占めている。私小説とは大まかにいえば、作家自身の生活、経験、心境と強く結びついた小説である。

1925年、久米正雄は「『私』小説と『心境』小説」で、私小説や心境小説を散文芸術の中心に置く強い文学観を示した[9]。1935年の横光利一も、当時の純文学を作家の身辺や自己の経験を書く方向と結びつけて論じている[8]。大正末から昭和期にかけて、私小説を純文学の中心に置く考え方が強かったことは、日本の純文学史を理解するうえで重要である。

しかし、純文学と私小説は同じ意味ではない。安部公房のように私小説とは大きく異なる作品を書く作家も、純文学の領域に位置づけられてきた。私小説は純文学の重要な歴史的伝統の一つだが、純文学全体を定義するものではない。


純文学は何をもって評価されるのか

では、「文学としての達成」とは具体的に何なのだろう。

今回の基礎調査で、受賞側11作品・非受賞候補4作品の芥川賞選評を比較した範囲では、言語・語り、構成・展開・結末、人物・人間認識、社会認識・主題の作品化、新規性・固有性、完成・統一、現実感・因果の説得力、切実さ・表現の熱、読者への作用・可読性などが評価の論点として確認された[2]。

文章だけが評価されるわけではない。重要な社会問題を扱えば自動的に高評価になるわけでもなく、新しい形式を使えばそれだけで優れた作品になるわけでもない。同じ作品について、ある評者が固有性を評価し、別の評者が構成を問題にすることもある。

純文学には共通の採点表はない。しかし、評価基準が存在しないわけでもない。作品が何を目指し、それを言葉、形式、人物、構成などによってどこまで実現しているかが問われる。何を文学的達成として重く見るか、その優先順位が論者や時代によって変わるのである。

なお、この比較は芥川賞全体を統計的に代表する調査ではなく、原選評を直接確認した事例と、出典付き選評抜粋を用いた事例を含む限定サンプルである。詳しい内訳と資料の確度は注[2]に示した。

評価軸ごとの実例については、別記事「純文学は何をもって評価されるのか?」で詳しく扱っている。


純文学を支える文芸誌と芥川賞

純文学は作品だけで成立しているわけではない。作品を発表する雑誌、新しい作家を選ぶ新人賞、単行本を刊行する出版社、作品を評価する文学賞や批評があり、それらが長い時間をかけて純文学という領域を形成してきた。

現在の純文学を考えるうえで重要な文芸誌には、『新潮』『文學界』『群像』『文藝』『すばる』などがある。『新潮』は1904年、現在につながる『文學界』と『文藝』は1933年、『群像』は1946年、『すばる』は1970年に創刊された[10]。

芥川龍之介賞も、この制度を象徴する存在である。現在の日本文学振興会は、芥川賞を雑誌に発表された新進作家による純文学の中・短編作品を対象とする賞としている[4]。純文学という言葉には時代による変化や境界の曖昧さがある一方、出版・批評の現場では現在も実際に機能している文学領域なのである。

文芸誌、文学賞、出版社の変化を含めた制度の歴史については、別記事「純文学の歴史:文芸誌・文学賞・出版社の制度史」で詳しく扱っている。


よくある質問

純文学と大衆文学の一番大きな違いは?

大衆文学では、大衆性や娯楽性が作品評価から切り離しにくい。一方、純文学では、大衆的人気や娯楽性がなくても、文学的達成によって高い評価が成立しうる。

純文学はストーリーがないの?

そんなことはない。純文学にも明確な物語や出来事を持つ作品は多い。ストーリーだけでなく、語り方、言葉、人物、形式なども含めて評価されるのが特徴である。

純文学は難しい?

読解の難しい作品はあるが、難解さは純文学の条件ではない。言語や形式を前面に出す作品では読解負荷が高くなりやすい一方、文章や題材が身近な純文学もある。

純文学と私小説は同じ?

同じではない。日本の純文学史では私小説が非常に重要だった時期があるが、私小説ではない純文学作品も多数存在する。

芥川賞と直木賞の違いは?

現在の規定では、芥川龍之介賞は新進作家による純文学の中・短編作品、直木三十五賞は新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本を対象としている[4]。ただし、芥川賞を受賞したことだけで純文学という概念全体を定義できるわけではない[1]。


まとめ:純文学は「文学として何を達成したか」を問う領域

純文学とは、面白さや売れ行きだけでなく、言語表現、形式、人間や社会の捉え方、固有性などを通じて、作品が文学として何を達成したかを重視する文学の領域である。

言葉や語り、新しい表現、人間や社会の捉え方などが重視される傾向はあるが、共通の採点表があるわけではない。大衆文学との重要な違いは、大衆性や娯楽性が高評価の必須条件でなくても、文学的達成によって評価が成立しうる点にある。

何を文学的達成として重く見るかは、時代や論者によって変化してきた。その意味で純文学は、一つの文体や題材によって決まるジャンルというより、文学の価値を何に置くかという考え方と、文芸誌・文学賞・出版社・批評などの制度が重なって形成されてきた歴史的な文学領域として理解するとわかりやすい。


この記事の調査について

本記事では、「純文学」という言葉について、辞書・事典による語義、近代以降の作家・批評家による文章、文芸誌・出版社・文学賞の制度資料、文学研究、文学賞の選評などを照合した。現在の意味を過去へそのまま当てはめないこと、作品の特徴と出版上の分類を混同しないこと、一つの例外を理由に歴史的な傾向まで否定しないことを重視している。

純文学の評価については、13回・15作品の限定した芥川賞選評サンプルから確認できる評価軸を使用した。15作品の内訳は受賞側11作品・非受賞候補4作品であり、原選評を直接確認した事例と、出典付き抜粋を経由した事例は区別して扱っている。


注

  1. 純文学の辞書的定義・初期用例。 コトバンク「純文学」に収録された『デジタル大辞泉』『精選版 日本国語大辞典』『日本大百科全書』等を参照。『精選版 日本国語大辞典』は森鴎外「美妙斎主人が韻文論」(1891年)を早期用例として掲げ、「美妙斎主人が韻文論」が書かれたころに造語されたものか、と留保している。同辞典は大衆文学と対比する意味の例として『新らしい言葉の字引』(1918年)も掲げる。北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(1893年)の「純文学の領地」は青空文庫本文で確認できる。また『日本大百科全書』は、芥川賞を受けたからそれだけで純文学だというわけではない旨も述べている。
  2. 芥川賞選評の限定サンプル。 13回から15作品を採用。内訳は受賞側11作品、非受賞候補4作品。受賞側は石川達三「蒼氓」、堀田善衛「広場の孤独」、石原慎太郎「太陽の季節」、北杜夫「夜と霧の隅で」、村上龍「限りなく透明に近いブルー」、小川洋子「妊娠カレンダー」、綿矢りさ「蹴りたい背中」、村田沙耶香「コンビニ人間」、宇佐見りん「推し、燃ゆ」、砂川文次「ブラックボックス」、市川沙央「ハンチバック」。非受賞候補は伊藤桂一「雲と植物の世界」、直井潔「淵」、崔実「ジニのパズル」、安堂ホセ「ジャクソンひとり」。第26回は堀田善衛「広場の孤独」「漢奸」の2作が受賞対象だが、本調査では「広場の孤独」のみを分析単位とした。第27回は受賞作なしであり、候補2作を採用している。原選評を直接確認した中心例は第26回・坂口安吾「選後感」、第27回・坂口安吾「選後感」、第166回・文藝春秋公開選評など。その他の多くは「芥川賞のすべて・のようなもの」の出典付き選評抜粋を使用しており、原誌・再録本未照合の例を含む。代表例:第1回、第34回、第43回、第75回、第104回、第130回、第155回、第164回、第168回、第169回。この調査は芥川賞全体を統計的に代表する標本ではない。
  3. 中間小説。 辞書的説明はコトバンク「中間小説」を参照。名称流通や、作品内容による規定と掲載媒体による規定の不一致については、丸山倫世「昭和20年代における中間小説―その文学的位置づけと変遷」『人文研究』66(2015年)の大阪公立大学機関リポジトリ公開PDFを参照。
  4. 芥川賞・直木賞の現行対象。 公益財団法人日本文学振興会「各賞紹介」、「よくあるご質問」を参照。現行の芥川龍之介賞は雑誌(同人雑誌を含む)に発表された新進作家による純文学の中・短編作品、直木三十五賞は新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本を対象とする。これは現行制度の説明であり、1935年の創設時規定と同一であるとはしない。
  5. 安部公房『砂の女』。 新潮社「Ⅱ 基盤|新潮社の沿革」は、1962年の項で安部公房『砂の女』を「純文学書下ろし特別作品」として記録している。新潮社がこの企画を開始したのは1961年。企画と当時の純文学論争との直接的な因果関係までは確認していない。
  6. 村上龍『限りなく透明に近いブルー』。 1976年の群像新人文学賞受賞および第75回芥川賞受賞を確認。第75回選評については出典付き選評抜粋を参照。本記事で使用した中村光夫・吉行淳之介の評価は『文藝春秋』1976年9月号掲載選評に由来するが、本記事制作時点では原誌・再録本の当該本文を直接照合していない。
  7. 村田沙耶香『コンビニ人間』。 初出は『文學界』2016年6月号。書誌は国立国会図書館サーチで確認。第155回芥川賞受賞は日本文学振興会「芥川龍之介賞 受賞者一覧」を参照。選評については第155回選評抜粋を使用しており、原誌本文を直接確認した扱いにはしていない。
  8. 横光利一「純粋小説論」。 本文は青空文庫「純粋小説論」で確認。確認底本は『昭和文学全集 第5巻』(小学館、1986年)、親本は『定本横光利一全集』。初出を『改造』1935年4月号とする研究として、丸山倫世「文学論争にみる昭和期の純文学概念―純粋小説論と純文学変質論争を例に」等を参照した。横光本文では「純文学にして通俗小説」と確認できるが、二次資料には「通俗文学」とするものもあり表記に異同があるため、本記事では確認底本の字句を採用した。先行する1935年1月5日の読売新聞紙面は未確認。
  9. 久米正雄「『私』小説と『心境』小説」。 青空文庫図書カードを参照。初出は『文藝講座』第7号(1925年1月15日)・第14号(1925年5月15日)。久米本人は同評論で「純文学」という語を使用していないため、久米の主張と、後世の純文学史上の整理は区別している。
  10. 主要文芸誌の創刊・誌歴。 『新潮』1904年は新潮社「Ⅰ 創業」、『文學界』1933年は文藝春秋の誌歴資料、『群像』1946年は講談社「群像について」、『文藝』1933年は河出書房新社「文藝」、『すばる』1970年は集英社「沿革」を参照。現在の媒体区分については集英社が『すばる』と『小説すばる』の違いを説明する公式記事も参照した。

参考資料・主要出典

辞書・事典

小学館『精選版 日本国語大辞典』『デジタル大辞泉』『日本大百科全書』ほか「純文学」収録ページ/「大衆文学」収録ページ/「中間小説」収録ページ

本人の文章・一次資料

北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」/久米正雄「『私』小説と『心境』小説」/横光利一「純粋小説論」

制度・文学賞

公益財団法人日本文学振興会「各賞紹介」/「よくあるご質問」/「芥川龍之介賞 受賞者一覧」/各出版社・文芸誌の公式沿革、文学賞・新人賞資料

研究・批評

丸山倫世「昭和20年代における中間小説―その文学的位置づけと変遷」/丸山倫世「文学論争にみる昭和期の純文学概念―純粋小説論と純文学変質論争を例に」/芥川龍之介賞選評および作品に対する署名批評

※本記事はATTESTED記事です。事実記述は実在し確認可能な資料に基づき、第三者の見解、筆者による推論・解釈・評価を含む場合には、それらを確認済みの事実と混同しない形で記載しています。現実の事実として提示される意図的な虚構や捏造は含みません。

visceraをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む