純文学は、いつ始まったのだろう。日本文学史では、自然主義や私小説が純文学の中心として語られることがある。1935年に始まった芥川賞も、現在の純文学を考えるうえでは欠かせない。しかし、どこか一つの年に「純文学」というジャンルや制度が突然完成したわけではない。
1880年代には近代小説をめぐる議論と新しい文章表現が生まれ、1900年代には自然主義が大きな影響力を持った。1910~20年代には同人誌、文壇、大衆文学、円本などが発達し、1930年代には文芸誌や文学賞が作品を選び、分類する仕組みが目立つようになる。戦後には新しい文芸誌と新人賞が加わり、現在では文学フリマや電子版など、文学を発表し届ける経路そのものも増えている。
純文学の歴史は、有名作家や名作を年代順に並べるだけでは見えてこない。作品を書く作家、それを発表する文芸誌、出版する会社、作品を選ぶ文学賞、そして読者へ届ける流通まで含めて見る必要がある。この記事では、明治期の近代小説の形成から、自然主義、文壇と同人誌、芥川賞、戦時統制、戦後の中間小説と新人賞、村上龍・村上春樹の登場、文学フリマや電子化まで、日本の純文学を取り巻く約140年の歴史をたどる。
目次
- 純文学の歴史をまず簡単に整理すると
- 純文学はいつ始まったのか?
- 明治時代:近代小説はどのように生まれたのか
- 大正から1920年代:文壇・同人誌・大衆文学が広がる
- 1930年代:文芸誌と文学賞が純文学を選ぶようになる
- 戦時期:文学も国家統制の外にはいられなかった
- 戦後:文芸誌が復活し、「中間小説」と新人賞が登場する
- 1960年代:「純文学の危機」と制度の拡大
- 1970年代:新しい世代と新しい文芸誌
- 1980~90年代:新人作家、大ヒット、海外への広がり
- 2000年代から現在:文芸誌の外にも文学の場が広がる
- 純文学はどのような仕組みで受け継がれてきたのか
- 純文学は衰退したのか?
- よくある質問
- まとめ:純文学の歴史は「作品」と「制度」が組み替わり続けた歴史
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純文学の歴史をまず簡単に整理すると
最初に、明治から現在までの流れを大きく整理しておこう。
| 時代 | 主な変化 | 主な作家・媒体・制度 |
|---|---|---|
| 1880~90年代 | 近代小説論、新しい文章表現、「純文学」の早期用例 | 坪内逍遥、二葉亭四迷、北村透谷 |
| 1900年代 | 自然主義、私小説につながる文学観、新聞小説 | 島崎藤村、田山花袋、夏目漱石 |
| 1910~20年代 | 同人誌、文壇、新感覚派、大衆文学、円本 | 『白樺』『文藝時代』『新青年』 |
| 1930年代 | 文芸誌・文学賞による選抜、「純文学」の出版分類 | 『文學界』『文藝』、芥川賞・直木賞 |
| 1940年代 | 戦時統制と戦後の再出発 | 日本文学報国会、『群像』創刊、『文學界』復刊 |
| 1950~60年代 | 中間小説、公募新人賞、純文学論争、書下ろし企画 | 文學界新人賞、群像新人文学賞、安部公房、大江健三郎 |
| 1970年代 | 新しい世代、文芸誌・新人賞の追加 | 古井由吉、村上龍、村上春樹、『すばる』 |
| 1980~90年代 | 新人作家の登場、大ヒット、国際的な流通 | 山田詠美、吉本ばなな、多和田葉子、村上春樹 |
| 2000年代~ | 直接販売、電子化、既存制度との併存 | 文学フリマ、文芸誌電子版、芥川賞 |
この表を見るだけでも、純文学の歴史が「自然主義から現在まで同じ形で続いてきたもの」ではないことが分かる。作品の書き方も、作家になる方法も、作品を発表する媒体も、評価する制度も変化してきた。一方で、古い仕組みが完全に消えて新しい仕組みへ置き換わったわけでもない。文芸誌や文学賞のように、形を変えながら現在まで続いている制度もある。
純文学はいつ始まったのか?
純文学には一つの明確な誕生年はない。「純文学」という語そのものは明治期から確認できるが、現在につながる純文学は、近代小説、新しい文章表現、自然主義や私小説、文芸誌、出版社、文学賞などが異なる時期に形成されることで成立してきた。
そもそも、文学作品を出版して読者へ届ける仕組み自体は江戸時代にも存在した。草双紙や読本などが出版され、貸本による流通もあった[1]。もちろん、それらをそのまま現在の純文学・大衆文学へ分類することはできないが、作家、版元、読者という関係が明治時代に突然ゼロから生まれたわけでもない。1885~86年には坪内逍遥『小説神髄』が刊行され、1887年には二葉亭四迷『浮雲』の初編が刊行された。1880年代には翻訳を通じた新しい文章表現も模索されている[2]。1890年代には「純文学」という語の早期用例が現れ、1900年代には自然主義が大きな影響力を持ち、1930年代には文芸誌、芥川賞・直木賞、「純文学」を名乗る出版企画などが目立つようになる。
つまり、「純文学の始まり」は、言葉の始まりなのか、近代小説の始まりなのか、自然主義なのか、純文学を選ぶ制度の成立なのかによって答えが変わる。純文学という言葉そのものがいつ成立し、どのように意味を変えてきたのかについては、「純文学の定義とは?意味の変化と論争の歴史をわかりやすく解説」で詳しく扱っている。
明治時代:近代小説はどのように生まれたのか
日本の純文学史を考えるうえで、明治時代は大きな出発点になる。ただし、この時代に現在の純文学が完成したわけではない。むしろ、後の文学へつながる複数の流れが同時に生まれていた。
『小説神髄』と『浮雲』
1880年代には、「小説とは何を描くものなのか」という考え方そのものが大きく変化した。坪内逍遥『小説神髄』は1885~86年に刊行され、二葉亭四迷『浮雲』の初編は1887年に刊行された。二葉亭はロシア文学の翻訳にも取り組んでいる[2]。こうした文学活動は、後の純文学だけを直接生み出したわけではない。同時代には政治小説、翻訳文学、新聞や雑誌の読み物など、さまざまな文学が存在していた。重要なのは、「小説は何のためにあり、何を描き、どのような日本語で書くのか」という問題が大きく組み替えられていたことである。
自然主義と私小説につながる流れ
1906年には島崎藤村『破戒』が刊行され、1907年には田山花袋「蒲団」が発表された。日本の自然主義は、その後の私小説や、作家自身の生活・内面と文学を強く結びつける文学観へ大きな影響を与えた。しかし自然主義以前にも近代小説論、翻訳、浪漫主義などが存在し、同時代にも夏目漱石や森鷗外など異なる文学的立場の作家が活動していた。日本の純文学史は、自然主義という一本の幹だけから伸びたわけではない。
作家になる方法も一つではなかった
この時代には、作品を世に出す方法もすでに複数あった。島崎藤村『破戒』は1906年に著者自身の発行で刊行され、田山花袋「蒲団」は1907年に商業雑誌『新小説』へ掲載された。同じ1907年、夏目漱石は朝日新聞社へ入社している[3]。現在では「新人賞を受賞して文芸誌に掲載される」という作家デビューのイメージが強いが、その仕組みはまだ成立していなかった。純文学の歴史は最初から、一つの正規ルートを通って作家になる歴史ではなかったのである。
大正から1920年代:文壇・同人誌・大衆文学が広がる
1910年には『白樺』が創刊された。武者小路実篤、志賀直哉らの活動で知られる『白樺』は、後世の主要な商業文芸誌とは異なり、同人を核とした文学・美術活動の媒体だった[4]。1924年には『文藝時代』が創刊され、横光利一や川端康成らと新感覚派の活動が結びついていく[5]。文学運動は作品だけによって作られるものではない。作家たちが集まり、自分たちの雑誌を持ち、そこで作品や批評を発表すること自体が、文学の新しい流れを作る仕組みになっていた。
同じ時代に大衆文学も発展した
1920年には博文館の『新青年』が創刊された。探偵小説、翻訳文学、都市文化などと強く結びついた雑誌である[6]。1920年代には出版市場そのものも大きく動き、1926年に改造社が企画を発表し、翌1927年から『現代日本文学全集』が刊行されるなど、いわゆる「円本」が広がった。同じ1927年には平凡社『現代大衆文学全集』の刊行も始まっている[7]。ここではすでに、「大衆文学」という名称が批評だけでなく出版商品の分類にも使われていた。純文学と大衆文学の違いについては、「純文学と大衆文学の違いとは?特徴・作品・評価基準をわかりやすく解説」で詳しく扱っている。
「文壇」も制度として形を持ち始める
1926年には小説家協会と劇作家協会が合併し、文芸家協会が設立された。1931年には同協会が出版契約書を作成している[8]。同じ1920年代には、私小説・心境小説を文学の中心として重視する言説も強く現れたが、新感覚派も探偵小説も大衆出版も同じ時代に存在している。1920年代は、後に純文学と呼ばれる価値観が強く形成された時代であると同時に、文学市場そのものが多方向へ拡大した時代でもあった。
1930年代:文芸誌と文学賞が純文学を選ぶようになる
1930年代は、現在につながる純文学の制度を考えるうえで重要な時代である。1933年10月には現在につながる『文學界』が創刊され、同年11月には改造社から『文藝』が創刊された。1935年には芥川龍之介賞と直木三十五賞が始まり、1937年には新潮社が「新選純文学叢書」全19冊の刊行を開始している[9]。ここでは、作品を発表する文芸誌、作品を選び顕彰する文学賞、純文学という名前で作品をまとめる出版企画という異なる制度が目立つようになった。
芥川賞が純文学を作ったわけではない
芥川賞が始まった1935年以前から、「純文学」という言葉も、芸術文学と通俗文学・大衆文学をめぐる議論も存在していた。そのため、芥川賞が純文学というジャンルをゼロから発明したわけではない。一方で、作品を選び、それに賞を与え、受賞作として広く社会へ提示する制度が生まれたことは大きい。第1回芥川賞を受賞した石川達三「蒼氓」は、大手出版社の主要文芸誌ではなく同人誌『星座』を初出としていた[10]。この例からも、「大手文芸誌に掲載されなければ純文学制度へ入れない」という一本道が最初から成立していたわけではないことが分かる。文学賞では何が評価されてきたのかについては、「優れた純文学とは?純文学のよしあしは何で決まるのか」で詳しく検討している。
制度ができても、境界は確定しなかった
同じ1935年、横光利一は「純粋小説論」を発表した。そこでは純文学と通俗小説を単純に分離するのではなく、「純文学にして通俗小説」という方向が論じられている。つまり、出版制度のなかで文学の分類が強く見えるようになった時代に、その境界をどう考えるべきかという議論も同時に起きていた。純文学は、制度化された瞬間に意味が固定されたわけではない。
戦時期:文学も国家統制の外にはいられなかった
1930年代後半から1945年にかけて、文学を取り巻く条件は大きく変化した。文学史では作品や思想が中心に語られやすいが、本を出すには紙が必要であり、雑誌を刊行する組織が必要であり、作家自身が活動できる環境も必要である。戦時期には、こうした物理的・制度的条件そのものが統制の影響を受けた。
1938年には、内閣情報部の要請を受けて文芸家協会が従軍作家を人選したことが協会沿革に記録されている。同じ1938年には新聞用紙の供給制限が始まり、雑誌用紙の節減も進められた。1940年5月には新聞雑誌用紙統制委員会の設置に伴う閣議了解が定められ、新規刊行や増量などへの用紙配給の判断が制度として整えられた[11]。1940年には日本文芸中央会が発足し、1942年には日本文学報国会が結成され、文芸家協会は解散した。1944年には『文藝』が改造社から河出書房へ移っている[12]。
この時代は、純文学史の空白ではない。作家が何を書くかだけでなく、誰が活動できるか、どの組織へ属するか、どの雑誌を刊行できるか、紙を確保できるかという条件まで文学に影響した時代だった。ただし、統制の存在から個々の文学者の態度を一律に説明することはできない。作家ごとの活動や戦争との関係は、個別に検討する必要がある。
戦後:文芸誌が復活し、「中間小説」と新人賞が登場する
1945年12月には日本文芸家協会が再発足した。1946年10月には講談社の『群像』が創刊され、1947年には『文學界』が復刊する。同じ1947年には『日本小説』『小説新潮』なども創刊された[13]。戦後文学は何もない場所から始まったのではなく、戦前からの制度の再出発と、新しい制度の追加が同時に起きた。
戦後派と「第三の新人」
戦後には、野間宏、大岡昇平らを含む「戦後派」などの世代区分が文学史上用いられるようになった。その後、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、遠藤周作ら、昭和20年代後半以降に文壇へ登場した作家たちは「第三の新人」と呼ばれるようになる。この呼称は、山本健吉が『文學界』1953年1月号に発表した評論「第三の新人」に由来する[14]。ただし、「第三の新人」は同じ新人賞を同時に受賞した作家集団の名称ではなく、文学史・批評上の世代区分である。文学史上の「世代」と、文芸誌や文学賞という制度上のまとまりは同じものではない。
「中間小説」とは何だったのか
戦後の文学史で重要なのが「中間小説」である。純文学と大衆文学の中間に位置する小説として語られたが、何をもって中間小説とするのかは最初から一定ではなかった。研究では、作品の内容から中間小説を定義する立場と、掲載された雑誌から定義する立場が一致していなかったことが指摘されている。また1947年前後には私小説からの脱却が問題となり、その後は「純文学」側そのものの変化も意識されていった[15]。純文学と大衆文学の境界は、戦前に決定され、そのまま固定されたわけではなかったのである。
公募新人賞が作家への入口になる
1950年代には、現在にもつながる公募新人賞が目立つようになる。1955年の第1回文學界新人賞では石原慎太郎「太陽の季節」が選ばれ、1958年には群像新人文学賞の第1回発表が行われた。同賞の第1回では小説部門の当選作はなく、評論部門に当選作があった[16]。ここで、出版社へ原稿を送り、選考を受け、作品が文芸誌へ掲載されるという作家への入口が制度としてはっきり見えてくる。ただし、これだけが唯一の道になったわけではない。
1960年代:「純文学の危機」と制度の拡大
1961~62年には、いわゆる「純文学論争」が起きた。純文学とは何か、私小説的な規範をどう考えるのか、現代社会と文学はどう関わるのか。純文学の位置そのものが改めて問題になった時代である。この論争を単純に「純文学が売れなくなったから起きた」と説明する根拠は確認できていない。詳しい論争史については、「純文学の定義とは?」で扱っている。
「危機」が語られる一方、新しい制度も生まれた
この時代の面白い点は、「純文学の危機」が論じられていたにもかかわらず、純文学を発表し選ぶ仕組みが消えていないことである。新潮社は1961年に「純文学書下ろし特別作品」の刊行を開始した。安部公房『砂の女』(1962年)や大江健三郎『個人的な体験』(1964年)も、この「純文学書下ろし特別作品」の一冊として刊行された[17]。つまり、純文学は文芸誌に発表してから単行本にする作品だけではなかった。1962年には文藝賞が始まり、1969年には第1回新潮新人賞が発表されている[18]。「純文学の危機」が語られたことと、純文学の制度が消滅したことは同じではない。むしろこの時代にも、新しい作家や作品を生み出す入口は追加されていた。
1970年代:新しい世代と新しい文芸誌
1970年代にも、純文学を発表し選ぶ制度は変化し続けた。1970年には集英社が季刊『すばる』を創刊し、1974年には角川書店が『野性時代』を創刊した。1977年にはすばる文学賞が始まっている[19]。一方、この時期の文学を説明する言葉として「内向の世代」がある。古井由吉などを含む世代について用いられた批評的呼称だが、「内向の世代」という一つの出版社や団体があったわけではなく、作家たちの作品は『新潮』『文學界』『群像』『文藝』『中央公論』『海』など複数の媒体へ分散していた[20]。
村上龍と村上春樹は「制度の外」から現れたのか
1976年、村上龍「限りなく透明に近いブルー」は群像新人文学賞の当選作となり、その後、第75回芥川賞を受賞した。1979年には村上春樹「風の歌を聴け」も群像新人文学賞を受賞している[21]。後に二人は非常に異なる作家像を持つことになるが、デビュー時点を見ると、どちらも『群像』の新人選抜制度と接続している。そのため、「村上龍や村上春樹が既存の純文学制度の完全な外側から突然現れた」という説明は正確ではない。むしろ、既存の文芸誌・新人賞という制度から、それまでとは違う題材や文体を持ち、さらに広い読者へ届く作家が現れたと見るほうが実態に近い。
1980~90年代:新人作家、大ヒット、海外への広がり
1980年代以降も、文芸誌と新人賞は新しい作家を発見し続けた。1982年には文芸誌『海燕』が創刊され、海燕新人文学賞も始まった。1987年には吉本ばなな「キッチン」が同賞を受賞した。山田詠美は1985年「ベッドタイムアイズ」で文藝賞を受賞し、多和田葉子は1991年、阿部和重は1994年に群像新人文学賞を受賞している[22]。ここから見えるのは、1950~60年代に整えられた公募新人賞という仕組みが、そのまま固定されたわけではないものの、複数の媒体へ広がりながら1980~90年代にも新しい作家を供給していたということである。一方、『文藝』は1986年に月刊から季刊へ変わり、『海燕』は1996年に終刊した[23]。
純文学系の新人制度から大ヒット作家も生まれた
1987年には村上春樹『ノルウェイの森』が刊行され、大きな読者を獲得した。村上春樹は『群像』新人賞から登場した作家であり、その作家が文芸誌の読者だけでは説明できない規模へ届いたことになる。吉本ばななも、日本国外で作品が刊行されていった。つまり、純文学系の新人制度と、広い読者への到達や国際的な流通は対立するものではない。ただし、一人の作家や一作品の成功を、その時代の純文学全体の売上へ置き換えることはできない。
2000年代から現在:文芸誌の外にも文学の場が広がる
2002年11月3日、第1回文学フリマが開催された[24]。文学フリマは現在、商業出版社を介さず、作者自身が文学作品を直接販売できる大きな場の一つになっている。興味深いのは、その成立が既存の商業文芸誌と完全に切れていたわけではないことである。主催者自身の歴史説明では、『群像』に掲載された大塚英志の問題提起と文学フリマ成立との関係が明記されている[24]。商業文芸誌と直接販売は、「古い文学」と「新しい文学」として単純に分断されているわけではない。
文芸誌と芥川賞の接続も続いている
一方、従来型の制度も残っている。2016年には『文學界』掲載の村田沙耶香「コンビニ人間」が芥川賞を受賞した[25]。2020年代の芥川賞でも、複数の文芸誌に掲載された作品が候補・受賞作となっている。新しい発表経路が増えたからといって、文芸誌と文学賞の仕組みが消えたわけではない。
文芸誌も電子化している
2023年9月号から『文學界』では電子版が始まった。『小説 野性時代』でも2020年12月号から電子版が併売され、国立国会図書館の書誌では紙版の連続刊行を2021年4月号まで確認できる。その後も電子版の刊行案内が存在する[26]。紙から電子への変化は、文学を届ける媒体そのものが変化していることを示している。ただし、ウェブ小説投稿、SNS、電子文芸誌、文学フリマ、オンライン同人活動は、それぞれ違う仕組みである。現在の純文学は、古い制度が一掃された世界ではなく、文芸誌・文学賞・新人賞という仕組みと、新しい発表・販売経路が併存する状態にある。
純文学はどのような仕組みで受け継がれてきたのか
ここまでの歴史を見ると、現在の純文学には、新人賞へ応募する → 選考される → 文芸誌へ掲載される → 単行本になる → 場合によって芥川賞などの文学賞へ進むという、よく知られた経路がある。文藝春秋の編集者・浅井茉莉子は公式インタビューで、文學界新人賞の応募原稿を編集部で分担して読み、最終候補について議論する実務を説明している[27]。
しかし、この仕組みは純文学の唯一の道ではない。『破戒』は著者発行だった。「蒼氓」は同人誌から芥川賞へ進んだ。『砂の女』は純文学の書下ろし企画から刊行された。村上春樹は群像新人文学賞を受賞して作家活動を始めたが、芥川賞受賞を必要とはしなかった。純文学は一つのベルトコンベアによって作家を生産してきたのではない。同人誌、新聞、文芸誌、出版社、新人賞、書下ろし、文学賞、直接販売など、時代ごとに複数の入口が存在してきた。
そして、制度だけが作品の価値を決めるわけでもない。雑誌や賞は作品を掲載し、顕彰することはできるが、作品の文章、構成、人間認識、新規性などが優れているかどうかは別の問題である。純文学そのものの意味については「純文学とは?」、作品の評価については「優れた純文学とは?純文学のよしあしは何で決まるのか」で詳しく整理している。
純文学は衰退したのか?
「昔は純文学が読まれていたが、今は売れなくなった」「純文学誌はもう衰退している」といった説明はよく見かける。確かに、文芸誌を取り巻く環境は変化している。『文藝』は月刊から季刊へ移行し、『海燕』は終刊した。『野性時代』では紙版の連続刊行が終了した一方、電子版の刊行は続いている。一方、『新潮』『文學界』『群像』『文藝』『すばる』などの媒体は現在も存在し、新人賞や芥川賞も続いている。そのため、「何も変わっていない」とも、「純文学の制度が消滅した」とも言えない。
さらに難しいのが、「純文学は売れなくなった」という主張である。2025年の日本の紙・電子を合わせた出版市場全体については統計が存在するが、これは純文学だけの市場規模ではない[28]。今回の調査では、「純文学」に属する本を同じ基準で長期間分類し、その販売額や部数を比較できる統計は確認できなかった。そのため、「昔に比べて純文学市場は○%縮小した」といった数字を根拠をもって示すことは、少なくとも今回の資料からはできない。純文学の現在を考えるときには、何が終わったのか、何が縮小したのか、何が電子化したのか、何が現在も続いているのかを分けて見る必要がある。
よくある質問
純文学はいつ始まった?
一つの誕生年はない。「純文学」という語は明治期から確認できるが、現在につながる純文学は、近代小説、自然主義、私小説、文芸誌、出版社、文学賞などが異なる時期に形成されることで成立した。
日本の純文学は自然主義から始まった?
自然主義は後の純文学史へ大きな影響を与えたが、唯一の出発点ではない。自然主義以前にも『小説神髄』や翻訳文学、浪漫主義などがあり、同時代にも夏目漱石や森鷗外など異なる文学活動が存在した。
芥川賞が純文学を作った?
純文学という語や文学的な区分は、1935年の芥川賞創設以前から存在していた。そのため、芥川賞が純文学をゼロから作ったとは言えない。ただし、純文学作品を選抜し、顕彰し、社会へ提示する制度として大きな役割を果たしてきた。
昔は純文学と大衆文学が完全に分かれていた?
完全には分かれていない。1930年代にも純文学と通俗小説の関係を問い直す議論があり、戦後には中間小説をめぐって境界そのものが問題になった。
純文学の代表的な作家は誰?
時代によって異なる。近代小説の形成期には二葉亭四迷、自然主義では島崎藤村や田山花袋、大正から昭和前期には志賀直哉、芥川龍之介、横光利一、川端康成、戦後以降では安部公房、大江健三郎、古井由吉、村上龍、村上春樹などが、純文学史を考えるうえで重要な作家として挙げられる。ただし、一人の作家の全作品が同じ分類に属するとは限らない。
現代では純文学はなくなった?
なくなっていない。現在も純文学を対象とする文学賞、文芸誌、公募新人賞が存在する。一方、電子版や文学フリマなど、作品を発表し流通させる方法は増えている。
文芸誌の新人賞を取らないと純文学作家にはなれない?
そのような決まりはない。新人賞は現在の重要な入口の一つだが、歴史上は同人誌、書下ろし、著者発行など別の経路も存在した。芥川賞受賞も継続的な作家活動の必須条件ではない。
まとめ:純文学の歴史は「作品」と「制度」が組み替わり続けた歴史
純文学の歴史は、一つの文学運動が誕生し、そのまま現在まで続いてきた歴史ではない。明治時代には近代的な小説観や文章表現が形成され、自然主義や新聞小説など複数の文学が並行して発達した。大正から1920年代には同人誌、文壇、新感覚派、探偵小説、円本などが広がり、1930年代には『文學界』『文藝』、芥川賞・直木賞、「純文学」を名乗る出版企画など、作品を発表し、選び、分類する制度が目立つようになった。
戦時中には作家団体、雑誌、用紙までが国家統制の影響を受けた。戦後には文芸誌の復刊と創刊が進み、中間小説、新人賞、「第三の新人」など新しい文学状況が生まれた。制度はそこで完成したわけでもなく、1960年代には「純文学の危機」が論じられる一方で、新しい書下ろし企画や新人賞が始まった。1970~90年代にも新しい雑誌と作家が登場し、文芸誌の新人制度から出た作家が巨大な読者市場や海外へ届く例も現れた。2000年代以降には文学フリマや電子版など、新しい発表・流通の仕組みが加わったが、文芸誌、新人賞、芥川賞など従来の制度も現在まで続いている。
純文学の歴史とは、作品だけの歴史でも、文学賞だけの歴史でもない。作家、作品、読者、文芸誌、出版社、文学賞、批評、同人誌、直接販売など、複数の仕組みが時代ごとに加わり、消え、形を変えてきた歴史である。だからこそ、「自然主義から始まり、芥川賞によって完成し、インターネットによって衰退した」という一本の物語では説明できない。純文学は、作品の書かれ方だけでなく、それを発表し、選び、評価し、読者へ届ける仕組みそのものを変えながら現在まで続いている。
この記事の調査について
本記事では、Viscera編集部が記事制作のために作成した非公開の歴史・制度史調査資料を基礎として、明治期から2020年代までの出版、文芸誌、作家団体、文学賞、新人賞、書籍流通などを検討した。調査では、作家・作品を年代順に並べるだけでなく、「誰が作品を発表させたのか」「どの媒体が掲載したのか」「どの制度が新人を選んだのか」「戦争や用紙統制が出版へどう影響したのか」「紙から電子への変化をどう扱うか」といった制度面を区別した。
また、出版社の自社史、公的書誌、文学賞主催者の記録、研究論文などを区別し、出版社自身による回顧を第三者による独立確認と同一視していない。原誌を直接確認していない事項や、市場統計が存在しない事項については、その範囲を越えて断定していない。そのため本記事では、「純文学は自然主義から始まった」「1930年代に純文学制度が完成した」「戦後に純文学と大衆文学の境界が消えた」「純文学は売れなくなった」「インターネットによって純文学制度が崩壊した」といった単線的な歴史像は採用していない。
注
[1]江戸期の版元、貸本、草双紙・読本などについて、国立国会図書館の出版文化史関連展示を参照。国立国会図書館「日本の出版文化史」
[2]坪内逍遥『小説神髄』、二葉亭四迷『浮雲』、二葉亭の翻訳活動について、国立国会図書館の書誌・人物資料・翻訳文学展示を参照。国立国会図書館サーチ『小説神髄』/国立国会図書館「近代日本人の肖像 二葉亭四迷」/国立国会図書館「翻訳文学」関連展示
[3]島崎藤村『破戒』初版書誌、田山花袋「蒲団」の初出、夏目漱石の1907年朝日新聞社入社について参照。CiNii Books『破戒』/さいたま文学館関連資料/新宿区立漱石山房記念館「夏目漱石の生涯」
[4]『白樺』の創刊・刊行について、国立国会図書館レファレンス協同データベースの書誌説明を参照。レファレンス協同データベース「白樺」関連資料
[5]『文藝時代』についてCiNii Booksの書誌を参照。CiNii Books『文藝時代』
[6]『新青年』の創刊・刊行について国立国会図書館サーチの書誌を参照。国立国会図書館サーチ『新青年』
[7]改造社の円本について国立国会図書館の電子展示を、平凡社『現代大衆文学全集』について国立国会図書館の書誌を参照。全集全巻の刊行順を監査したという意味ではない。国立国会図書館「円本」関連展示/国立国会図書館『現代大衆文学全集』
[8]日本文藝家協会「沿革」。1926年の文芸家協会設立、1931年の出版契約書作成等を参照。日本文藝家協会「沿革」
[9]1933年の『文學界』『文藝』創刊、1935年の芥川賞・直木賞創設、1937年の「新選純文学叢書」について参照。CiNii Books『文學界』/河出書房新社「文藝」/文藝春秋「文学賞」/新潮社「新潮社の沿革」
[10]第1回芥川賞の石川達三「蒼氓」と初出誌『星座』について、日本文学振興会の受賞記録を参照。日本文学振興会「芥川賞受賞者一覧」
[11]1938年の新聞用紙供給制限については出版関連法令を整理した研究資料を参照。1940年5月17日の「新聞雑誌用紙統制委員会設置に伴う閣議了解事項」は国立国会図書館掲載本文を参照した。また1938年の従軍作家人選については日本文藝家協会沿革を参照。日比嘉高「内地・外地の出版関連主要法令対照年表・稿」/国立国会図書館「新聞雑誌用紙統制委員会設置に伴う閣議了解事項」/日本文藝家協会「沿革」
[12]日本文芸中央会、日本文学報国会、文芸家協会の解散、『文藝』の改造社から河出書房への移管について、日本文藝家協会沿革・書誌・河出書房新社誌史を参照。日本文藝家協会「沿革」/河出書房新社「文藝」
[13]日本文藝家協会の再発足、『群像』創刊、『文學界』復刊などについて参照。日本文藝家協会「沿革」/講談社「群像について」/CiNii Books『文學界』/新潮社「新潮社の沿革 II 基盤」
[14]「第三の新人」は、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、遠藤周作ら、昭和20年代後半以降に文壇へ登場した作家を指す文学史上の呼称で、山本健吉の評論「第三の新人」(『文學界』1953年1月)に由来する。コトバンク「第三の新人」
[15]丸山倫世「昭和20年代における中間小説―その文学的位置づけと変遷」『人文研究』66、2015年。一次言説の一部は同論文を通じて確認しており、原誌をすべて直接確認したわけではない。大阪市立大学学術機関リポジトリ掲載ページ
[16]文學界新人賞第1回と群像新人文学賞の初期履歴について参照。群像新人文学賞の公式履歴では、第1回発表は1958年8月号で、小説部門に当選作はなく、評論部門に当選作がある。文藝春秋「文學界新人賞」/講談社「群像新人文学賞 当選作・優秀作一覧」
[17]新潮社は1961年に「純文学書下ろし特別作品」の刊行を開始した。安部公房『砂の女』と大江健三郎『個人的な体験』はいずれも同シリーズの作品として確認できる。新潮社「新潮社の沿革 II 基盤」/新潮社『波』編集長欄
[18]文藝賞、新潮新人賞の沿革について各主催社資料を参照。河出書房新社「文藝賞」/新潮社「新潮新人賞」
[19]『すばる』創刊、すばる文学賞、『野性時代』の書誌について参照。集英社「沿革」/集英社「すばる文学賞」関連ページ/国立国会図書館サーチ『野性時代』
[20]「内向の世代」は批評上の世代名であり、作家の作品初出誌は複数媒体に分散している。講談社『内向の世代』関連書誌
[21]村上龍「限りなく透明に近いブルー」、村上春樹「風の歌を聴け」の群像新人文学賞受賞について、講談社の公式履歴を参照。講談社「群像新人文学賞 当選作・優秀作一覧」
[22]『海燕』と海燕新人文学賞、吉本ばななの受賞、山田詠美の文藝賞、多和田葉子・阿部和重の群像新人文学賞について参照。国立国会図書館サーチ『海燕新人文学賞受賞作品集 1982–1996』/吉本ばなな公式サイト「プロフィール」/河出書房新社「文藝賞」/講談社「群像新人文学賞 当選作・優秀作一覧」
[23]『文藝』の刊行形態と『海燕』の終刊について書誌を参照。CiNii Books『文藝』/国立国会図書館サーチ『海燕新人文学賞受賞作品集 1982–1996』
[24]文学フリマの成立経緯、第1回開催日、活動の自己定義について主催者資料を参照。文学フリマ「文学フリマとは」/文学フリマ「文学フリマの歴史」
[25]村田沙耶香「コンビニ人間」は2016年上半期の第155回芥川賞受賞作。掲載誌と受賞記録について日本文学振興会を参照。日本文学振興会「芥川賞受賞者一覧」
[26]『文學界』の電子版は2023年9月号から開始。『野性時代』については国立国会図書館の紙版書誌とKADOKAWAによる電子版刊行案内を区別して参照した。文藝春秋「『文學界』電子版、9月号よりスタート」/国立国会図書館サーチ『野性時代』/KADOKAWA『小説 野性時代』刊行案内
[27]文藝春秋の公式インタビューで、編集者・浅井茉莉子が文學界新人賞応募原稿の選考や編集実務について説明している。現在の一事例として用い、全出版社・全時代へ一般化していない。文藝春秋「MISSION #01 文藝編集者に一番大切なのは、『好き!』を伝える熱量」
[28]全国出版協会・出版科学研究所による2025年の紙・電子出版市場推計。出版市場全体の統計であり、純文学単独の市場規模としては使用していない。全国出版協会・出版科学研究所「2025年出版市場」ニュースリリース
参考資料・主要出典
- 国立国会図書館「日本の出版文化史」
- 日本文藝家協会「沿革」
- 日本文学振興会「芥川賞受賞者一覧」
- 日本文学振興会「各賞紹介」
- 新潮社「新潮社の沿革」
- 河出書房新社「文藝」
- 講談社「群像について」
- 講談社「群像新人文学賞 当選作・優秀作一覧」
- 集英社「沿革」
- 文学フリマ「文学フリマとは」
- 文学フリマ「文学フリマの歴史」
- 丸山倫世「昭和20年代における中間小説―その文学的位置づけと変遷」
- 木村政樹「『アクチュアリティ』の時代―純文学論争における平野謙」
- 大澤聡「脱神聖化する文学領域―大宅壮一の文壇ジャーナリズム論」
- 文藝春秋「『文學界』電子版、9月号よりスタート」
- 文藝春秋・浅井茉莉子インタビュー
- 全国出版協会・出版科学研究所「2025年出版市場」ニュースリリース
※本記事はATTESTED記事です。事実記述は実在し確認可能な資料に基づき、第三者の見解、筆者による推論・解釈・評価を含む場合には、それらを確認済みの事実と混同しない形で記載しています。現実の事実として提示される意図的な虚構や捏造は含みません。