精神の畸形|『ひきこもりの手記』とサイコグロテスク

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一 不愉快な本

『ひきこもりの手記』は、不愉快な本である。殺人、暴力、自殺、差別的な物言い、反道徳的・反倫理的な思想、人間嫌悪、被害者意識、極度に批判的で懐疑的な精神。読者に嫌われるための材料には事欠かない。

もっとも、それだけならば珍しくもない。殺人鬼も狂人も残酷描写も、今日の娯楽には氾濫している。人間が惨殺されるホラー映画を私たちは愉しむことができるし、異常犯罪者を魅力的な登場人物として消費することもできる。狂気や残酷さは、じゅうぶんに加工されさえすれば、快楽になる。周知のように、これは今にはじまったことではなく、十九世紀のロンドンの蝋人形館には、処刑された犯罪者を並べた「恐怖の部屋」がすでにあったのであって、客はそこに金を払って入ったのである。私もこれまで、不快な小説は山ほど読んできた。しかし、それらと比較しても『ひきこもりの手記』が私に与える不快感は特殊である。

ここでちょっと厄介なのは、この手記の筆者もまた「私」と名乗っていることで、私の「私」と紛らわしいから、以下、手記のほうは〈私〉と括弧つきで書くことにしよう。

〈私〉は自分を殺人者として、精神疾患の診断を受けた人間として、長年ひきこもっている人間として語る。読者としては、まず「狂った殺人鬼」「社会不適応者」「被害妄想の強い人間」といった、分かりやすい抽斗に押し込めたくなる。ところが、この本はそう簡単に抽斗に収まってくれないのである。

たとえば自分の記録が矛盾していることについて、〈私〉は読者が「なんだやはり精神が錯乱している典型的な気狂殺人鬼ではないか!」と考えることを先回りして書く。その直後には、殺人鬼が一つの動機を理路整然と説明するほうがむしろ「役者」のようで不自然であると反論し、読者にも人生の重大な行動について本当の動機を書いてみろと要求する。自分の矛盾を指摘されたところから、いつの間にか、人間の精神に本当に一貫した動機などあるのか、という問いに話が移っている。本文の冒頭でも、人間の精神を「非常に複雑な機構」と捉え、分かりやすい殺人の動機なるものを、後から作られた物語として疑っている。

こういうやり方が、本書には何度となく出てくる。こちらが作品を観察しているつもりでいると、作品のほうからこちらの常識や正常性を調べられる。真相を整理しようとすれば、整理する行為のほうが作話的ではないかと言われる。〈私〉の思想を批判しようとすれば、その批判に用いた正義や道徳まで問題にされる。

私はこうした精神の畸形を、かりにサイコグロテスクと呼んでみたいと思う。医学用語でも既成の文学ジャンルでもない、私の勝手な造語である。グロテスクという語は、十五世紀末に再発見されたネロの黄金宮の地下室が洞窟(grotta)のように見えたことから、その壁画装飾がgrottescheと呼ばれたことに由来する。そこに描かれていたのは、人間、動物、植物、建築的形態などが自由に混成された奇怪な装飾であった。つまりグロテスクは、その歴史の初めから、異質なものの混成や、あるべき形からの逸脱と深く結びついていたのである。身体的なグロテスクに肥大、欠損、変形、癒着、左右非対称があるように、精神にもまた肥大、歪み、倒錯、欠如、分裂、異常な結合がありうるであろう。その異形が文章や構造にまで現れているのが、『ひきこもりの手記』の不愉快さの正体ではないか、というのが以下の話である。


二 憎悪の肥大

精神の畸形を考えるとき、もっとも分かりやすい標本は、第二部の「人類害虫説」である。

〈私〉は精神病棟で生活していた時期、戦争、貧困、差別を調べるうち、「人間という動物自体を心底大嫌いになった」と振り返る。そして当時書いた「人類害虫説」を、「混乱含めて当時の心境」であるとして、修正せずに全文掲載するのである。

その文章は、「私は人間が大嫌いだ」と始まる程度では済まない。

「私は人間をよろこばせるために書くのではない。人間を怒らせるために書く。だれひとりとして救いたくない。すべての人間を呪いたい。」

そこから迫害、暴力、拷問、虐殺、侵略、戦争、欺瞞、偽善と話題を移しながら、人類に対する呪詛が延々と続く。

読んでいて、はなはだ苦しい。人間が嫌いだということはもう分かった、それでもまだ続くのか、という辟易が途中から生じる。しかし私の考えでは、このうんざりするほどの持続こそが重要なのである。ここで想い出されるのは、サド侯爵の小説に挿入された、あの果てしない哲学的長広舌である。『ジュリエット』の悪党たちは、殺す前に、殺す理由を何十頁にもわたって講義する。サドの読者がいずれ知るように、あの退屈は欠陥ではなく方法であって、ふつうなら数行で片づく感情を、適切な大きさに収まらないまま膨張させておくところに、サドの怪物性があった。〈私〉の憎悪もまた、同じ種類の肥大を起こしている。

もっとも、サイコグロテスクを単純な肥大とだけ考えると狭すぎる。別の場所では歪みや癒着のほうが目立つからである。

〈私〉は後に、この時期の自分を、

「憎悪の粘土をこねあげてそこに論理の背骨をあたえたような怪物になった。」

と表現する。被害者感情、復讐心、正義への執着をこね混ぜながら思索を続け、最後には「全人類に報復する権利」ばかりか「義務」があると考える地点にまで進んだという。

ここで奇妙なのは、〈私〉が単純な悪人ではないことである。どちらかと言えば、倫理や正義への執着が強すぎる。戦争、虐殺、差別、迫害に反応し、それらを許せないというところから始まり、正義の論理を詰めるうちに人類全体を断罪する思想にたどり着く。倫理を捨てた怪物というより、倫理に取り憑かれた結果として怪物化しているのである。この点は、無神論者を自称しながら神を罵ることをついにやめられなかったサドの、あの裏返しの信仰に似ていなくもない。

しかも本人は、その地点にも居座らない。人類害虫説を書いている最中か書き終えた直後に思想が「逆立ち」し、今度は正義のために人間を断罪するのではなく、人間のために正義を断罪する方向に転じた、と回想する。

この人物には、どこか異様に純粋なところがある。正義が嫌いなのに正義を諦められない。人間を憎みながら、人間が苦しめられることにも耐えられない。人類害虫説のような文章を書いた人物が、その後には自分に課す「自戒」を作り、「不殺」まで掲げる。

だから気味が悪いのである。単なる露悪なら、悪趣味として笑って終われる。〈私〉の場合、善悪がもっと絡まっている。人を救いたい気持ちと人を呪いたい気持ち、被害者意識と加害性、正義感と復讐心とが、いわばフランケンシュタインの怪物の継ぎはぎの身体のように、妙な縫い目で癒着している。私がサイコグロテスクと呼ぶのは、こうした精神の「歪な形」のことである。


三 記録の迷宮

『ひきこもりの手記』には記録が多い。母の殺害、母を埋めた場所から現れる子供の遺体、第一章の解体された子供、「一度目」「二度目」とされる殺人、第三の殺人とその対象、手鏡、父、食い違う日付。これだけ材料があれば何かが分かりそうなものだが、実際には逆のことが起こる。

〈私〉は、自分の記録について「これだけの記録があるのに」分からないのではなく、「これだけの記録があるから」分からないのだと説明し、殺人に関する記録だけでも段ボール八箱分あると語る。私の手もとの構造台帳でも、子供殺しに関する記録群は相互に一致しないものとして整理してある。

ふつうなら情報が増えれば真相に近づく。ところが本書では、記録が増えるほど細部の矛盾も増え、どれを採用すべきか分からなくなる。ピラネージの「牢獄」の連作を想い起こしていただきたい。あの銅版画では、階段や橋や梁が描き足されるたびに空間はいよいよ広大になり、いよいよ出口を失うのである。記録の増殖もまた、迷宮の増築にほかならない。

ミステリなら、ここから雑音を捨てて筋を通すであろう。『ひきこもりの手記』は、その作業にまで文句を言うのである。矛盾した証言を排除し、辻褄の合う情報だけを拾って一つの人生や事件を作ること自体が、現実を物語に加工する行為ではないか、と疑う。

面倒である。「矛盾しているから読みにくい」と言えば済みそうなのに、作品の〈私〉から「なぜ現実に矛盾がないと思っているのか」と返される。「それと小説の整理不足とは別問題だろう」とこちらは言い返せるが、それでも、作品から投げ返された問いが消えるわけではない。

本書では、謎だけが不確定なのではない。分かるとは何か、出来事を一本の筋書きにするとはどういうことか、という読書の方法自体まで争点になる。読者が使用している読解の道具にまで絡んでくるので、読みこもうとするほど、読みかたが分からなくなる。


四 自分の尾を食う蛇

『ひきこもりの手記』を読んでいると、全てを疑い、全てを否定しているように見える。社会、精神医学、道徳、常識、正義、因果関係、言葉。片っ端から攻撃する。しかし、この〈私〉、ニヒリスティックな逆説家や軽薄な相対主義者として読むと捉え損ねる。

正義が典型である。〈私〉は正義が嫌いだから「正義なんて存在しない」と言って終わるわけではない。第二部では本気で「正義七原則」を作り、他者に規範を課す際の条件を組み立てる。ところが後に、

「正義七原則を破棄した。正確には破棄したというより正義七原則を批判的に見直した。」

と、自分でその理論を壊す。理想的な原則を作っても、現実には大国、多数派、知的権威、政治権力のような「巨人」が規範を振り下ろせば、それが正義として通用してしまうからである。そこで今度は「正義裏七原則」を作り、「理想の正義を理論化する」のではなく「現実に正義とよばれているものを分析する」方向に切り替える。真剣に考えているのである。そして、考えた結果として失敗する。

この失敗の仕方が興味深い。自分の理論が現実を説明できなければ、理論に現実を合わせるのではなく、いったん理論のほうを壊す。新しい理論を作る。それもまた疑う。錬金術の図像に、自分の尾を食う蛇ウロボロスというものがあるが、〈私〉の懐疑はまさにこの蛇であって、他人の思想を噛むのと同じ歯で、自分の思想を噛むのである。〈私〉の批判的精神は、自他問わず、全方向に際限なく牙を剥き続ける。

そのため「何でも否定しているだけだ」と批判しようとすると、その否定的態度も本人がすでに疑っている。「正義を信じないニヒリストだ」と言えば、正義とは何かを延々考え、わざわざ七原則まで作っている。「理論が矛盾している」と指摘すれば、本人が矛盾を自覚し、その矛盾をさらに考えはじめる。


五 被告席の交換

これが、『ひきこもりの手記』を読んでいて特に嫌なところだと私は思う。

一般に、読者は作品を批判する側にいる。この人物は狂っている、この思想は幼稚だ、この小説は論理的に破綻している、この主人公には社会性がない、と好きに評価できる。読者とは、いわば安全な席に坐った裁判官なのである。

『ひきこもりの手記』も当然批判できる。論理の飛躍、過剰な一般化、自己弁護、倫理的・道徳的に受け入れがたい主張、単純に退屈な長話。批判したくなる箇所はいくらでもある。それでも妙な気まずさが残る。というのは、本書が極度に批判的であり、その批判の矛先は人間や社会全般、さらには我々読者にも向けられているからだ。こちらが批判するよりもまえに、こちらが批判されているのである。

〈私〉を社会不適応者と呼べば、社会に適応していることをなぜ価値だと思うのか、と聞かれる。狂っていると言えば、正常と異常を誰が決めているのかという話になる。道徳的に間違っていると言えば、その道徳は誰が作り、誰が誰に課しているのかと絡まれる。矛盾していると言えば、人間の精神や人生に一貫性を要求することのほうが作為的ではないかと返される。

この姿勢は序盤からかなり露骨である。〈私〉を「世間知らず」と呼ぶ人々に対して、「自分は世間を知っている」と思っているほうこそ、自分のような存在を世間から除外しているのだから「世間の外側知らず」ではないか、と反論する。

こちらの批判が間違っているとは限らない。おそらく、ふつうに正しい批判もたくさんあるであろう。ただ、自分に向けられた批判を無視して相手の欠点だけを指摘すると、どうしても防衛的に見える。本書を批判するときにも、それに近い感覚がつきまとう。

本書を読んでいるときに、何度も、自分が批判されているような気分になった。男性がフェミニズムの本を読んでいて不愉快な気分になるのと同じように、そして、言い返したくなるのと同じように、人間が本書を読めば気分が悪くなり、批判し返したくなるのは至極当然である。

〈私〉は読者との距離についても、かなり厚かましい。

「私の言葉は貴方のなかにするするはいりこむ。」

その後には、読者が忘れても否定しても、その言葉は読者の中に残り、読者自身の言葉と混ざっていくとまで書く。

勝手な話である。しかし、この勝手さが本書の読書体験にはよく合っている。こちらは作品を読む客のつもりでいるのに、いつの間にか作品から人格や価値観を詮索されている。作品を被告席に坐らせるつもりで読みはじめたら、なぜか自分も尋問を受けている。裁判官と被告とが席を交換するのである。

本書を批判しかえすことはできる。しかし、それによって本書から受けた批判が無効になるわけではない。こちらが反論に成功したとしても、最初に投げられた問いは残る。そこに、この本の嫌な強さがある。


六 文体の畸形

サイコグロテスクは〈私〉の思想や感情だけには収まらない。文章にも同じ歪みが出ている。

本書は自分で、

「物語は破綻しているし論理は矛盾しています。問題は解決しないし感動の結末もありません。内容は混乱しているし逸脱しています。まとまりもなくよみにくいものです。」

と宣言している。

実際そのとおりである。回想が続いていたと思えば突然長大な理論が始まり、夢、日記、断片が挟まる。第二部では番号が三百から一へと逆行する。理論は途中で反転し、過去の文章を修正したことまで本文に書かれる。

そして何より、長い。人間を嫌いになれば「人類害虫説」が延々と続く。正義を考えれば七原則が生まれ、それを壊して裏七原則が生まれる。自分の人生を書いていたはずなのに、途中から世界、現実、虚構、認識、論理の話にまで進む。読んでいて「もうやめてくれ」と思うことが頻繁にある。

ここを全部「高度な文学的実験」として褒める必要はない。単純に冗長で、削ったほうがいいと思う場所もある。自分から破綻していると言っておけば破綻が美点になるわけでもない。ただ、この文章を単に稚拙と呼ぶことも難しい。

ホラー映画で肉体のグロテスクを観客に見せるには、特殊メイクや造形の技術が必要になる。醜いものを置けば自動的に恐ろしい映像になるわけではない。十六世紀の外科医アンブロワーズ・パレが『怪物と驚異について』で畸形を蒐集したときも、必要だったのは驚くことではなく、描くことであった。同じように、人間の精神をグロテスクとして見せるにも表現力がいるのである。

『ひきこもりの手記』が描いているのは、きれいに整理された「狂気」ではない。人間の精神が苦しみ、足掻き、もがき、憎み、喚き、呪いながら、その一方で救いを求めるような、見苦しい運動である。〈私〉は後半、自分が惨めなほど追い込まれていることを認め、正義を他者に課す方向から、自分を守るための自戒を作る方向にも移っていく。

私はこの本を最低でも三度は通読しているが(私のような怠け者が三度も通読したという事実が、すでに何ごとかを証明しているように思う)、読むたびに気づくのは、思想、哲学、文学の古典が恐るべき密度でテキストに編み込まれていることである。露骨な引用もあるが、それだけではない。古典的な論法や構図、言い回しがパロディや変形として文章の背後に埋め込まれており、気づかずに通り過ぎる箇所も多い。

実際、人類害虫説の冒頭に唐突に置かれる「The horror! The horror!」からして、単なる思いつきの悪態ではない。いうまでもなく、コンラッドの『闇の奥』でクルツが最期に洩らす言葉である。第一部のエピグラフにはカルデロンが置かれ、本文中でもニーチェ、聖書をはじめ古今の思想家・文学者が繰り返し意識されている。〈私〉自身、書物を通して古今東西の文学者、哲学者、科学者、思想家、神秘家、宗教家を自分の「教授陣」としてきた、と誇示する。むろん、この自己評価をそのまま信じる必要はない。ただし、「頭のおかしい人間が勢いだけで書いた怪文書」として処理するには、テキストの作りが妙に込み入っている。

知性も技術も、少なくともある部分では相当に高い。ただ、その能力が、読者に分かりやすく伝える、美しい小説を作る、整った思想体系を完成させる、といった方向に素直には使われていない。問題をさらに掘り、論点を増やし、相手の前提を崩し、自分の理論まで破壊する方向に発達している。いわば知性の、畸形学的な発達である。

文章も美文とは言いがたい。荒くてくどいが、妙に生々しく迫力がある。レトリックとロジックを絡ませながら相手の前提を何度も押し返す文章には、私には十九世紀以前の思想書や論争的文学を想わせる古臭い力が感じられる。『地下室の手記』の地下室人の饒舌よりも、むしろ『マルドロールの歌』の、あの冒頭で読者を威嚇するロートレアモンの口ぶりに近いかもしれない。昨今の日本の文芸作品では、全く見かけない種類の文章である。


七 無修正の怪物

本書が一般的な商業出版社から刊行された作品ではないことも、この嫌な手触りと無関係ではない。

一般的な商業娯楽にも狂気は大量に出てくる。殺人鬼、人間嫌い、人格の破綻した人物、反倫理的な思想。だが、多くの読者に商品として届ける過程では編集が働く。長すぎれば切る。意味が伝わらなければ整理する。読者が完全に脱落しそうな部分は調整する。狂気も、ホラー、サスペンス、ミステリ、魅力的な悪役といった形で消費しやすく加工される。商業作品の狂気は、原則的に「客に食べさせるための調理されたもの」である。商業作品において、狂気は整えられ、毒は薄められ、牙は丸められているが、『ひきこもりの手記』にはそうした安全な編集が加えられていない。

人類への呪詛が何千字続く。自己弁護も長いまま残る。差別的な表現も、被害者意識も、読者への敵意も、かなり剥き出しで置かれている。編集者がいたら相当切られたであろうと思う部分が山ほどある。ついでにいえば、サドの小説もまた、バスチーユの独房で、刊行のあてもなく書かれた、編集者のいない文学であった。幽閉された人間の文章には、外気に触れていない特有の濃度がある。ひきこもりの手記もまた、当然のことながら、幽閉の文学なのである。

作中の筆者も、そもそも読者に気持ちよく読んでもらおうという態度をあまり見せない。序盤から、ベストセラー小説を「単純で理解しやすくて良いもの」と皮肉り、娯楽を求めるなら他を読めと言う。そして後には、

「我々は決闘の相手であり戦友なのだ。読者諸君、剣をかまえたまえ……!」

と書き、非凡な書物を「遅効性の毒物」と呼ぶ。

商品としては相当に愛想が悪い。むろん、編集されていないことを美徳にするつもりはない。欠点もそのまま残っている。もっと削れば読みやすくなる場所は多いし、思想の焦点が長すぎる説明でぼやけることもある。ただ、この作品の場合、その未加工さが不快さの濃度を上げている。一般的な娯楽なら抜かれる棘や薄められる毒が、ほとんど生の状態で読者に届く。要するに、娯楽品に本来されるべき修正作業がされていない、無修正の状態で流通しているのである。


八 標本壜

〈私〉は、かつての自分について「憎悪の粘土をこねあげてそこに論理の背骨をあたえたような怪物になった」と書いている。この怪物という比喩は、人物だけでなく本全体にもよく似合う。

人類害虫説では憎悪が肥大している。正義論では正義感と復讐心が妙な形で癒着する。自己認識には分裂があり、自己愛と自己嫌悪の双方が疑われる。記録は過剰に増殖し、真相を明らかにするどころか輪郭をぼかす。懐疑は外部だけに向かわず、自分の作った理論まで侵食する。その精神が何十万字も文章を書く。

すると文章にも似た異形が現れる。一つの感情が何千字にも膨らむ。正義を考えれば七原則を作り、それを壊して裏七原則を作る。語り手の精神にある肥大、歪み、分裂、欠如が、文体や構造にも染み出している。十九世紀にジョフロワ・サン=ティレール父子らによって体系化された畸形学は、怪物を自然法則の外側にある怪異としてではなく、正常な形成過程との連続上にある異常として捉えようとした。この本の畸形もまた、おそらく同じ理屈で考えることができるのであろう。

怪物がこの本を書いている、という言い方はここから出てくる。勿論、実在の著者を怪物と呼んでいるわけではない。作中に構築された〈私〉という精神の形についての話である。終盤では〈私〉自身、読者から見れば「これまではなしたどんな人物とも似ていない怪物」に見えたかもしれないと書き、それでも読者を怒らせ、笑わせ、驚かせ、うんざりさせたかったと言う。

この本は読者を嫌な気持ちにさせる。しかし、嫌なだけの本として捨てるのも、難しい。〈私〉は露悪だけで動いている人物ではない。怪物的である一方、妙に純粋でもある。倫理を捨てたのではなく、倫理を考えすぎておかしな場所にたどり着く。知性がないわけでもなく、部分的には相当に高い。文章も洗練されてはいないが、精神の見苦しい運動を可視化するという一点では独特の表現力がある。

だから一定数の読者がついたことも、私にはそれほど不思議ではない。よく似た作品がほとんど見当たらないうえに、ある種の文学的な強度がある。思想に賛同する必要はないし、文学として完成度が高いと評価する必要もない。しかし、この本を一種の「畸形の思想書」として面白がる好事家が現れても、おかしくはないであろう。明らかに愚かなら馬鹿にして閉じればいい。明らかに悪なら断罪すればいい。明らかに下手なら技術不足として捨てればいい。『ひきこもりの手記』は、そのどれにもきれいに収まらない。そこが何より居心地が悪い。

要するに『ひきこもりの手記』のサイコグロテスクとは、単に狂った人物が登場することではない。精神の肥大、歪み、倒錯、欠如、分裂が文章に現れ、その文章が長大な構造を作り、最後には本そのものがどこか怪物じみた形になることである。

形が悪い。異常に膨らんだ場所がある。必要なものが欠けた場所もある。別々の器官が癒着している。左右も揃っていない。私はこの本を、しばらく書架の隅に、畸形の標本壜のように置いておこうと思っている。ときどき、壜のなかからこちらを見ているような気がするからである。

提供:MMM(『ひきこもりの手記』発行元)

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