『ドグラ・マグラ』を読み終えたあとに残るのは、「結局、何が本当だったのか」という疑問である。七号室で目覚めた〈私〉は呉一郎なのか。正木博士と若林博士のどちらが事件を仕組んだのか。なぜ現在の日付が10月20日と11月20日に分かれるのか。物語は最後から最初へループしているのか。それとも、すべては「胎児の夢」なのか。
こうした問いには、それぞれもっともらしい答えがある。しかし『ドグラ・マグラ』の場合、ある箇所をうまく説明する説が、別の箇所では問題を抱える。そこで本記事では「真相はこれだ」と一つの説を先に決めるのではなく、本文から成立する6つの有力な読みについて、支持する記述と、それでは説明しにくい記述を両方確認する。
なお、以下の6つは完全な六択ではない。①〈私〉=呉一郎説は「主人公は誰か」に答える読みであり、④時間ループ説は「時間や形式がどうなっているか」に答える読みである。複数の読みが同時に成立することもある。本記事で確かめたいのは、どの読みがどこまで本文によって支えられ、どの地点から読者側の推論が加わるのか、ということである。
※以下、『ドグラ・マグラ』の結末まで扱う。未読の場合は、まず「『ドグラ・マグラ』とは?」を、更に人物・作中文書・時系列を整理したい場合は「『ドグラ・マグラ』読解」を参照してほしい。作者の生涯については「夢野久作とは?」に詳しくまとめた。作品本文は青空文庫で全文公開されている[1]。
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先に結論――6つの読みはどこまで本文から支持できるのか
最初に6つの読みについて、本記事の結論を簡単に示しておく。
| 読み | 本記事の判定 |
|---|---|
| ① 〈私〉=呉一郎説 | 最有力。ただし身体的同一性まで完全確定するわけではない |
| ② 若林による記憶再現実験説 | 有力。だが「一か月前の再現」は〈私〉自身の終盤の推論に依存する |
| ③ 正木犯人・正木中心説 | 深い関与は強く支持される。単独犯・黒幕としての確定はできない |
| ④ 時間ループ説 | 円環的な形式は非常に強い。物理的なタイムループは本文から確定できない |
| ⑤ 全篇=「胎児の夢」説 | 本文中に明確な根拠はあるが、作品全篇の客観的真相とするには追加推論が必要 |
| ⑥ 作中原稿『ドグラ・マグラ』=本作説 | 両者の同型性は非常に強いが、完全な同一テクストとは明記されない |
要するに『ドグラ・マグラ』には、何も分からないわけではない。〈私〉と呉一郎の結びつき、正木の事件への関与、若林による情報管理、冒頭と末尾の円環的対応など、強く言えることがある。一方、「正木がすべてを仕組んだ」「時間が無限に巻き戻っている」「全篇は胎児の夢である」といったところまで進むと、本文事実に読者側の推論が加わってくる。以下、その境界を順番に見ていく。
① 主人公の〈私〉は呉一郎なのか?
判定:〈私〉=呉一郎は最も強く支持される読み。ただし、本文は〈私〉の身体的同一性を独立した証拠によって完全確定してはいない。
『ドグラ・マグラ』の主人公を説明するとき、もっとも自然なのは「記憶を失った呉一郎」である。実際、本文にはこの読みを支持する材料が大量にある。
物語冒頭から六号室の少女は〈私〉を兄・許嫁として扱う。若林も〈私〉を呉家の事件へ結びつける。正木も、絵巻物由来記を読んだ記憶が残っていれば「君は呉一郎に相違ない」と条件付きで述べ、モヨ子を〈私〉の未来の妻として語る。号外に記載される一郎の頭部打撲の痕跡をめぐる情報も、正木の説明や〈私〉の前額部の痛みを介して現在の〈私〉へ接続される。終盤では〈私〉自身も、若林黒幕説を採るなら「私は是非とも呉一郎でなければならぬ」と条件付きで自分を一郎に同定する。
このため、〈私〉=呉一郎は単なる俗説ではない。本文が読者をもっとも強く導いている同定である。主人公〈私〉の同一性そのものは研究でも中心的な論点になっており、安部美幸には「〈私〉とは何者か」を題した論文がある。[2]
それでも「完全確定」としにくい理由
問題は、〈私〉自身に呉一郎としての自発的な過去記憶がほとんどないことである。「自分は一郎だ」と思うための材料の多くは、少女、若林、正木、新聞、その他の文書から外部的に与えられる。読者も〈私〉と同じく、他人の言葉によってその同一性を信じるように導かれている。
しかも正木自身の発言も一方向ではない。正木は〈私〉について、どこの何という青年なのかは「学理上にも実際上にも明白に決定されていない」と述べ、記憶が戻らなければ「無名の一青年」として公表され得るとも語る。その一方で条件付きながら「君は呉一郎に相違ない」と言い、さらに後には「君は呉一郎の……」と言いかけて中断する。つまり正木自身も、〈私〉を一郎へ結びつけながら、その同一性が完全に確定したかのようには語っていない。
さらに後半には、解放治療場に〈私〉と瓜二つの青年が現れる。正木はこの青年と〈私〉の関係について、同じ母から同時刻に生まれた、双生児以上に密接である、離魂病である、窓外の像は記憶が見せる夢である、といった説明を重ねる。ところが直後に、それらを「みんな嘘」、すなわち〈私〉の頭を試すための説明だったと撤回する。
また〈私〉自身も後半、一郎を「あの呉一郎」、自分を「この俺」として、瓜二つの別人であるかのように推理する場面がある。これは単に「一郎だった記憶がない」というだけでなく、一時的とはいえ〈私〉自身が別人説を組み立てているという意味で重要である。
窓外の青年こそ呉一郎なのか?
ここから、「本物の呉一郎は窓外にいた青年であり、七号室の〈私〉は別人なのではないか」という読みも成立する。たしかに同時に二人の酷似した人物が見える以上、その可能性は無視できない。
ただし別人説を採ると、少女、若林、正木、号外、頭部打撲をめぐる対応、終盤の自己推論など、〈私〉を一郎に結びつける大量の情報を別の方法で説明しなければならなくなる。その負担を考えると、本文全体への適合度では〈私〉=呉一郎説の方が強い。
しかし強いことと、完全に証明されていることは同じではない。もっとも安全な結論は、〈私〉=呉一郎は本作でもっとも有力な同定だが、作品はそれを疑いようのない身元確認としては提示していない、というところだろう。
② 若林は〈私〉に一か月前を再体験させているのか?
判定:若林が〈私〉への情報提示と記憶実験を管理していることは強く示される。「一か月前の出来事を再現させている」というところまで進むと、有力だが確定しない。
物語前半を改めて見ると、若林は〈私〉にすぐ名前を教えず、その後、散髪、入浴、更衣、六号室の少女との対面、教授室の資料という順番で刺激を与えていく。教授室に入ってからも、作中原稿や正木の資料を順次提示する。
なお、時計音と壁越しの少女の声は若林が〈私〉の前に現れる以前から経験されている。それらまで若林が仕組んだ暗示だったと考えるのは、終盤の〈私〉自身の推論である。この点は、若林が実際に行ったことと、〈私〉が後から若林の仕掛けだったと疑うことを分けておく必要がある。
一方、散髪そのものには興味深い証言がある。理髪師は、〈私〉の髪を「ちょうど丸一個月前」にも同じように刈った趣旨の発言をする。この証言は、現在と一か月前の出来事の対応を考えるうえで重要な材料になる。
若林の行為は単に親切な医師が事情を説明しているとも読める。しかし正木は後半、若林が散髪や服装、少女との対面などを利用し、〈私〉に自分を一郎だと認識させようとしているかのように説明する。若林の行為が治療なのか、実験なのか、暗示なのかは、最初から一義的ではない。
10月20日と11月20日の差を説明できる
若林実験説が特に魅力的なのは、作品最大の時間的不一致を説明しやすいことである。若林は現在を11月20日だと言う。一方、後から現れる正木は10月20日だと言う。しかも若林は正木が一か月前に死んだと説明し、号外は10月20日に正木の死を報じる。
ここから、現在は11月20日で、若林が〈私〉に一か月前の10月20日の状態を再現させている、と考えれば、二つの日付をかなりきれいに接続できる。
実際、終盤の〈私〉自身がほぼその仮説へ到達する。教授室の資料が急激に古びていることや、解放治療場の様子が変わっていることを目にした〈私〉は、自分が「一箇月前の記憶」を再現していたのではないか、若林が「一箇月前と同じ手順」を繰り返して自分を実験しているのではないかと考える。さらに推論は過激になり、若林が何度も同じ夢遊状態を繰り返させ、〈私〉を監視・記録している可能性まで疑う。
ただし、それを考えているのは〈私〉である
「若林が一か月前を再現する実験をしている」のではなく、正確には、終盤の〈私〉がそう推理する。若林自身が実験の全容を告白する場面はない。正木も若林を実験継承者や競争相手として非難するが、正木の説明自体が常に客観的真実とは限らない。
この説では、午前中に現れた正木の存在をどう説明するかという問題が残る。〈私〉は正木と長時間会話し、小使が茶を運んでくる場面まで経験する。これがすべて記憶再現、夢遊、知覚像だったとすれば説明は可能だが、その説明を本文が客観的に確定しているわけではない。
よって、若林が現在の〈私〉を管理し、何らかの記憶・精神実験を行っているという読みはかなり有力だが、「11月20日に10月20日を完全再演している」が唯一の真相とは言えない。
③ 本当の犯人は正木博士なのか?
判定:正木が事件・研究・実験に深く関与していることはほぼ疑いない。しかし「正木一人がすべてを仕組んだ」という単独犯・黒幕説までは確定できない。
正木犯人説には、これ以上ないほど強烈な根拠がある。正木自身が「犯人は俺」と言うからである。
しかも正木は一郎の心理遺伝研究、絵巻物、解放治療場、過去の事件、若林との競争など、物語のほとんどすべてに関わっている。〈私〉も一時、事件の中心は正木であり、若林はむしろ無罪なのではないかという方向に推理する。
普通のミステリなら、当事者本人の「犯人は俺」という発言は重い。しかし『ドグラ・マグラ』では、この発言の文脈がすでに単純ではない。
「犯人は俺」はどのような文脈で出るのか
正木は「犯人は俺」と言ったあと、この宣言を、調査書類の内容全部が自分を事件の犯人として指していることへの応答として位置づける。〈私〉が若林の名を口にすると、正木はそれを叱り、「本人は既に一切を自白している」、その調査書類は「自分で犯した罪跡を、自分で調査して吾輩に報告したもの」だという趣旨の説明をする。
さらに正木は犯罪者の「自白心理」と「隠蔽心理」を説明し、自分が張本人として名乗りを上げずにいられなくなった理由をこれから説明すると語る。
つまり「犯人は俺」という一言は、最初から単純な実行犯の自白としてだけ提示されているわけではない。文字どおり犯罪を実行した本人の告白とも読める一方、調査書類によって自分に向けられた嫌疑を引き受ける発言とも読めるような文脈を持っている。
WとMの説明が単独犯説をさらに崩す
その後、正木はWとMという二人の人物を用いて事件を再構成する。本文上、Wは若林、Mは正木へ非常に強く対応する。専門、経歴、役割、容貌、銀時計をめぐる挿話などが重なる。
ただし、本文が「W=若林、M=正木」と方程式のように明記するわけではない。正木はW・Mの記号を使う再構成の直前に、若林の調査書類を指して「本人は既に一切を自白している」と語り、再構成を終えたあとには「若林の調査書類と、吾輩の遺言書」と実名を並べる。またWについて第一回卒業生を説明する途中には「即ち吾々」と、自分たちの経歴であることを示すような言い方もする。W・Mと若林・正木の対応は非常に強いが、記号そのものを実名へ完全に置換する文章はない。
特に重要なのは、正木自身がWとMを「同罪」のように扱い、証拠上どちらか一方を確定できないという方向に話を進めることである。「犯人は俺」という発言だけで正木単独犯へ収束させることはできない。
第一の千世子事件についても説明は一つではない。ある資料では麻酔と学識ある第三者の関与が推定され、正木の別の説明では心理遺伝と夢遊による「犯人無き犯罪」とされ、さらに後の正木自身はそれを覆してW・Mによる計画事件を語る。それも「後から語られた説明だから真相」という規則は作品内にない。
そのため、正木について安全に言えるのは、事件を外から研究していただけの無関係な医師ではなく、研究・実験・絵巻物・一郎・若林との関係を通じて事件内部へ深く入り込んでいるということまでである。「正木が黒幕だった」は非常に魅力的な説明だが、単独犯としてすべてを一人に回収すると、W・M問題や資料間の食い違いを捨てることになる。
④ 『ドグラ・マグラ』はループしているのか?
判定:冒頭と末尾が円環的に対応していることは非常に強く言える。しかし作品世界の時間が物理的に巻き戻り、同じ出来事が無限に繰り返されているとは確定できない。
『ドグラ・マグラ』を「ループもの」として説明する読みは分かりやすい。作品は巻頭歌に続いて時計の「……ブウウ――――ンンン……」という音に入り、末尾でもよく似た時計音が現れる。七号室、少女の声、意識の境界といった要素も冒頭と終盤で呼応する。
次の教授室で紹介される作中原稿『ドグラ・マグラ』について、最初と最後を同じ片仮名の行列でつなぎ、長い出来事を一瞬のうちに見たように構成することが説明される。『ドグラ・マグラ』の構成自体を扱った研究として、田中雅史「体験と認識――夢野久作『ドグラ・マグラ』の構成について」がある[3]。
円環構造とタイムループは別物
ここで二つを分けなければならない。一つは、文章や構成が円環を作っていること。もう一つは、作品世界の時間が過去に巻き戻っていること。
前者には強い本文根拠がある。後者には、それほど強い根拠がない。
末尾の〈私〉は冒頭と同じ情報状態へ完全に戻るわけではない。〈私〉はすでに大量の文書を読み、正木と会話し、自分を一郎かもしれないと考え、モヨ子や父母についての推理まで経験している。したがって、末尾=冒頭の「同じ瞬間」がそのまま再生される、と単純には言えない。
厳密には、外側の小説の冒頭と末尾の時計音は非常によく似ているが、完全に同一の文字列ではない。一方、作中原稿については〈私〉自身が第一行と最終行を見比べ、「同じ片仮名の行列」であることを確認している。この差も、作中原稿と外側の作品をそのまま同一視しない方がよい理由の一つになる。
では「一か月ループ」はどうか
10月20日と11月20日の不一致、〈私〉自身の「一箇月前の記憶の再現」仮説を組み合わせると、一か月単位の反復という読みも可能になる。理髪師による「ちょうど丸一個月前」に同じように髪を切ったという証言も、この読みと響き合う。
さらに〈私〉は、もし若林の11月20日という発言まで嘘なら、10月20日以来「何度も何度も数限りなく」同じ夢遊状態を繰り返させられていることになる、とまで考える。つまり無限反復というアイデア自体は作中に出てくる。
ここでもそれを考えているのは〈私〉である。作品外の客観的な語り手が「実際に無限ループしている」と宣言するわけではない。
よって、「『ドグラ・マグラ』はループ構造である」と言うなら安全だが、「主人公は物理的タイムループの中で永遠に同じ一日を繰り返している」と断定すると、本文から一段遠ざかる。形式的円環は強い。記憶・実験の反復も有力。物理的な無限タイムループは一つの解釈。この三段階に分けるのがもっとも正確である。
⑤ すべて「胎児の夢」だったのか?
判定:「胎児の夢」は終盤の〈私〉自身が明確に採用する有力な自己解釈である。ただし、『ドグラ・マグラ』全篇の客観的真相として確定するには追加推論が必要。
「結局すべて胎児の夢だった」という説明は、『ドグラ・マグラ』の真相として非常に有名である。これは完全なこじつけではない。
作中にはそのものずばり「胎児の夢」という長大な文書がある。そこでは、胎児が母胎内で生物進化の過程や祖先の経験を反復するという奇怪な理論が展開される。
そして終盤、混乱した〈私〉はこの理論を自分自身へ適用する。今日一日に経験した膨大な出来事は、実は胎児が母胎内で見ている夢なのではないか。自分はまだ母の胎内にいるのではないか――そう考えるのである。
ここまでなら本文に明確に存在する。
問題は「〈私〉がそう考えた」から先である
しかし、「〈私〉が今日一日を胎児の夢だと考える」ことと、「作品世界の客観的真相が胎児の夢である」ことは同じではない。
終盤の〈私〉は直前まで、正木犯人説を考え、次には若林黒幕説を考え、さらに無限反復まで疑う。彼の推理は短時間のうちに何度も大きく変化する。「胎児の夢」もその連続の最後に出てくる。
たしかに作品の最末尾に近いから重みはある。しかし、最後に出てきた仮説を作者による解答とみなすためには、もう一つ根拠が必要になる。したがって、胎児の夢説は本文から直接生まれる重要な読みだが、それが唯一の正答だとは本文だけから言えない。
「〈私〉は一郎とモヨ子の胎児」なのか?
ここからさらに派生して、〈私〉は呉一郎本人ではなく、呉一郎とモヨ子の間に生まれる胎児なのではないか、という説も流通している。
これは「胎児の夢」というモチーフと、「〈私〉の正体が確定しない」という問題を一度に解決できるため魅力的である。しかし本文直前の文脈を見ると問題がある。
〈私〉は「胎児の夢」を自分へ適用する直前に、正木を父、千世子を母として考えている。その流れから「母親の胎内」を想像する。したがって、少なくともその場で〈私〉が想像している母胎は、モヨ子の胎内とは読みづらい。
つまり、〈私〉=一郎とモヨ子の胎児説は「胎児の夢」という語からは連想しやすいが、終盤の直接的な文脈とは緊張する。胎児説を採るとしても、本文に最も近いのは「〈私〉自身が自分を胎児として想像する」というところまでであり、「一郎とモヨ子の子」と特定するのはさらに別の解釈である。
⑥ 作中の『ドグラ・マグラ』は、読者が読んでいる本なのか?
判定:作中原稿と、読者が読んでいる『ドグラ・マグラ』には非常に強い同型性がある。ただし両者が文字どおり同じテクストだとは明言されない。
『ドグラ・マグラ』には、作中にもう一冊の『ドグラ・マグラ』が登場する。若林によれば、それは若い患者が書いた原稿で、正木と若林をモデルにした二人の博士と、その患者自身をモデルにした青年が登場する。
さらに原稿には、阿呆陀羅経の文句、精神科学者の談話、胎児論、脳髄についての記録、遺言書、腐敗した死体の画像、殺人事件調査書類などが含まれていると説明される。これは読者が実際に読んでいる『ドグラ・マグラ』の構成と驚くほどよく似ている。
しかも〈私〉自身が原稿の巻頭歌、標題、第一行と最終行を実際に確認し、第一行と最終行が「同じ片仮名の行列」になっていることを見ている。その後、若林が原稿の内容を説明する。
こうなると、「作中原稿『ドグラ・マグラ』こそ、私たちが読んでいる本なのではないか」と考えるのは自然である。
それでも完全同一とは言い切れない
ところが本文を厳密に見ると、作中原稿は教授室に存在する一個の物体として〈私〉へ示されている。〈私〉は巻頭部分と第一行・最終行を確認するものの、その原稿を全文読むわけではない。若林の説明を聞いたあと、原稿そのものを読み進めることはしない。
作者についても、若い大学生患者だとは説明されるが、それが現在の〈私〉であるとは明言されない。さらにその原稿は正木の死後間もない時期に短期間で書かれたと説明される一方、〈私〉にはそれを書いた記憶がない。10月20日を現在とする系列との接続にも問題が残る。
もう一つ重要なのは、作中原稿では第一行と最終行が「同じ片仮名の行列」だと〈私〉自身が確認するのに対し、読者が読む外側の『ドグラ・マグラ』の冒頭と末尾の時計音は同型ではあるものの、文字列として完全に同じではないことである。
つまり本文から確実に言えるのは、作中原稿が、読者の読む本と非常によく似た登場人物・文書群・円環構造を持つところまでである。
そこから、作中原稿の作者=〈私〉、作中原稿=現在進行中の叙述、作中原稿が自分自身を内部に含んでいる、と進むたびに一段ずつ推論が加わる。
そのため、本作を自己言及的・メタフィクション的な小説として読むことには十分な根拠がある一方、「作中の本と読者が手にしている本は完全に同じテクストである」とまで断定する必要はない。むしろ、同じなのか別物なのか判別できないほど似ていること自体が、『ドグラ・マグラ』らしい仕掛けだと考えた方がよいだろう。
6つの読みを比較するとどうなるか
ここまでの検証をまとめる。
| 読み | 本文の支持 | よく説明できるもの | 主な弱点 |
|---|---|---|---|
| ① 〈私〉=呉一郎説 | 強い | 主人公と過去事件の接続 | 自発的記憶・独立した身元証明がなく、正木自身も未決定性を語り、酷似青年も存在 |
| ② 若林の記憶再現実験説 | 中〜強 | 11月20日/10月20日の一か月差、情報提示の順序 | 実験の全容は〈私〉自身の終盤推論に依存 |
| ③ 正木犯人・正木中心説 | 中〜強 | 絵巻物、事件、研究、実験の因果 | 「犯人は俺」の文脈自体が揺れ、W・M双方の可能性も残る |
| ④ 時間ループ説 | 形式は非常に強い/物理ループは弱い | 冒頭末尾の時計音、反復、日付問題 | 同一時点への物理的回帰は明言されない |
| ⑤ 胎児の夢説 | 部分的に強い | 終盤の〈私〉の世界認識、作品の夢・記憶構造 | 全篇の客観的真相にするには〈私〉の推論を格上げする必要 |
| ⑥ 作中原稿=本作説 | 中 | 自己言及、入れ子、円環構造 | テクストの完全同一性・作者同一性が明言されず、細部にも差がある |
この比較で重要なのは、「一番強い説」を一つ選んでも他の説が消えないことである。〈私〉が呉一郎であり、同時に若林の実験を受けており、その実験が円環的な構成の中で描かれ、〈私〉が最後に自分を胎児だと推論する、という組み合わせも成立する。つまり6つの読みは、同じ問題を奪い合うライバルではなく、作品の別々の層を説明していることが多い。
一番有力な読みは何か
それでも「本文にもっとも近いところだけを残すとどうなるか」と聞かれれば、ある程度の強弱はつけられる。
まず、①〈私〉が呉一郎であるという読みは最も強い。少女、若林、正木、号外、頭部打撲をめぐる対応、終盤の自己推論など、多数の情報が同じ方向を向く。ただし正木自身も同定と未決定の両方向を語っており、別人説を完全には排除できない。それでも本文全体を説明する負担は一郎説の方が小さい。
次に、③正木が一連の事件と実験へ深く関与した人物であることも強い。「犯人は俺」という発言を抜きにしても、正木は一郎、絵巻物、心理遺伝、解放治療場、若林との競争の中心にいる。ただし、「犯人は俺」自体が調査書類と自白心理をめぐる複雑な文脈で発せられ、その後にはW・M双方の可能性が残されるため、「正木単独犯」まで伸ばすことはできない。
また、②若林が現在の〈私〉に与える情報と刺激を管理していることもかなり明白である。それが治療なのか、暗示なのか、記憶再現実験なのかは確定しないが、単なる傍観者ではない。
時間構造については、④円環性は非常に強い。冒頭・末尾の時計音、七号室、少女の声、そして作中原稿の反復構想がある。ただし、それをそのまま「物理的な無限タイムループ」と呼ぶと証拠強度が落ちる。
⑤「胎児の夢」についても、〈私〉自身がそう考える以上、無視できない。しかし「〈私〉が胎児の夢だと推論する」ことと「作者がこれを最終解答として提示した」ことは分ける必要がある。
⑥作中原稿についても同じである。読者の本との対応は非常に強い。しかし「似ている」から「完全に同じ」へ進むところに解釈が入り、第一行・最終行の扱いなど細部にも差がある。
よって、本記事の検証から最も無理の少ない読みを組み立てるなら、次のようになる。
〈私〉は呉一郎である可能性が非常に高い。正木は呉家の事件と精神科学実験に深く関与し、若林はその研究と現在の〈私〉への実験・情報提示を引き継いでいる可能性が高い。作品は明確な円環構造を持つ。しかし、現在の日付、正木の生死、実験の具体的全容、時間が本当に循環しているのか、全篇が胎児の夢なのか、作中原稿と本作が完全に同一なのかについては、本文が一つの答えを固定していない。
これなら、かなり多くの本文を捨てずに説明できる。逆に、「すべて正木の仕業だった」「全部若林の実験だった」「実は胎児の夢だった」「無限ループしている」と一文で片づけるほど、どこかの本文を無視しなければならなくなる。
『ドグラ・マグラ』に「唯一の真相」はあるのか?
ここまで検証すると、『ドグラ・マグラ』の特殊さが見えてくる。通常の探偵小説では、複数の証言や偽情報があっても、最後にそれらを整理する上位の説明が現れる。探偵の推理、犯人の自白、客観的な証拠などによって、「本当はこうだった」が確定する。『ドグラ・マグラ』には、それがない。
若林が説明する。正木が別の説明をする。正木自身が自分の説明を撤回する。作中文書にはさらに別の説明がある。号外や葉書も新しい情報を加える。そして最後には〈私〉が自分なりの真相を次々に推理する。しかし、どの説明にも「これが最終審級である」という保証がない。
後から出てきた説明が、前の説明を訂正することはある。しかし後発だから真実とは限らない。正木の「みんな嘘」が典型で、正木が前の話を撤回したとしても、今度は正木の新しい説明そのものを誰が保証するのか、という問題が残る。
この構造のため、読者は最後まで探偵役をやめることができない。そして、おそらくここが『ドグラ・マグラ』を単なる「難解なミステリ」にしないところである。
まとめ――『ドグラ・マグラ』の「真相」とは何なのか
『ドグラ・マグラ』には、有力な読みがいくつもある。しかし、それらは同じ強さではない。
①〈私〉=呉一郎はかなり強い。③正木が事件へ深く関与していることも強い。②若林が現在の〈私〉への情報提示と実験を管理している可能性も高い。④冒頭と末尾が円環的に対応することは、かなり強い本文根拠を持つ。
その一方で、正木単独犯、若林による一か月の完全再演、物理的な無限ループ、⑤全篇=胎児の夢、⑥作中原稿=読者の本という説明は、いずれも本文に根拠を持ちながら、最後の一歩で追加推論を必要とする。
だから『ドグラ・マグラ』の「真相」は、一個の秘密の答えを発見すれば終わるようなものではない。むしろこの作品では、どこまでが本文によって支持され、どこからが人物の説明や読者の推論なのか、その境界そのものが揺らされ続ける。
「主人公は誰か」という問いさえ、〈私〉自身の記憶ではなく、他人の言葉と文書から作られていく。「何が起きたのか」という問いも、若林、正木、作中文書、新聞、葉書、〈私〉自身の推論を通さなければ知ることができない。
そう考えると、『ドグラ・マグラ』の迷宮は、真相が隠されているから難しいだけではない。真相を確定するために必要な「信頼できる最後の視点」そのものが存在しない。
そこまでを作品の仕掛けとして受け入れたとき、「結局何が本当なのか分からない」という読後感も、単なる説明不足ではなく、『ドグラ・マグラ』という小説の構造として見えてくる。
この記事の調査について
本記事では青空文庫公開の『ドグラ・マグラ』本文を基準とし、主人公の同一性、若林・正木の説明、第一事件、W・M、10月20日/11月20日、冒頭と末尾の反復、「胎児の夢」、作中原稿『ドグラ・マグラ』について、支持する記述と反対方向の記述をそれぞれ照合した[1]。
その際、「人物がそう語ったこと」「作中文書にそう記載されていること」「〈私〉自身がそう推理したこと」と、それが作品世界の客観的事実であることを区別している。また、一般に流通している「無限ループ」「全部胎児の夢」「正木が黒幕」「主人公は一郎とモヨ子の胎児」といった説については、説の存在自体を根拠として採用せず、作品本文と一致する範囲だけを評価した。
研究史についても、特定研究者の論文内容を確認できていない場合には、その研究者へ具体的な真相説を帰属させていない。本記事の「6つの読み」は研究史上確立した六学説という意味ではなく、作品本文と一般的な読解から生じる主要な解釈軸を、比較のために整理したものである。
注
[1] 夢野久作『ドグラ・マグラ』。青空文庫の図書カードによれば、公開本文の底本はちくま文庫『夢野久作全集9』(筑摩書房、1992年)。
青空文庫「ドグラ・マグラ」図書カード
[2] 安部美幸「夢野久作「ドグラ・マグラ」論 ―〈私〉とは何者か―」『尾道市立大学日本文学論叢』11号、2015年、173–188頁。DOI: 10.18899/nic.11.09。主人公〈私〉の同一性を論題とする研究。本記事では具体的な解釈内容を無断で帰属させず、論文の存在と主題のみを参照している。
CiNii Research:安部美幸「夢野久作「ドグラ・マグラ」論 ―〈私〉とは何者か
[3] 田中雅史「体験と認識――夢野久作『ドグラ・マグラ』の構成について」『言語文化研究』(徳島大学総合科学部)10号、2003年、87–108頁。作品構成を扱う研究。本記事では題名・書誌から確認できる範囲を超えて具体的解釈を帰属させていない。
CiNii Research:田中雅史「体験と認識――夢野久作『ドグラ・マグラ』の構成について」
参考資料・主要出典
作品本文
夢野久作『ドグラ・マグラ』。本記事における作品本文の基準資料。
青空文庫「ドグラ・マグラ」図書カード
研究・読解
安部美幸「夢野久作「ドグラ・マグラ」論 ―〈私〉とは何者か―」『尾道市立大学日本文学論叢』11号、2015年、173–188頁。DOI: 10.18899/nic.11.09。
CiNii Research
田中雅史「体験と認識――夢野久作『ドグラ・マグラ』の構成について」『言語文化研究』(徳島大学総合科学部)10号、2003年、87–108頁。
CiNii Research
本記事では、作品本文から確認できる事項と、人物による説明、作中文書の記載、主人公自身の推論、そこから導かれる読者側の解釈を可能な限り区別しています。①〈私〉=呉一郎説、②若林による記憶再現実験説、③正木犯人・正木中心説、④時間ループ説、⑤全篇=「胎児の夢」説、⑥作中原稿『ドグラ・マグラ』=本作説のいずれについても、本文が支持する範囲を超えて唯一の真相として断定していません。本文参照上の誤り、研究文献の帰属上の誤りが確認された場合は訂正します。